2008年12月 2日 (火)

Qf 古希以降の仕事 119 高齢者の新規業務へのチャレンジ志向

平成2091日に杉並区公会堂で敬老・傘寿顕彰式典があった。漢字で「傘」というのが八十一に分解できるので、81歳が傘寿と呼ばれているようである。杉並区の人口は54万人で81歳の人は5千人とのことである。人口の1%が81歳で、私もその中の1人である。
 高齢者が最も警戒するのは「骨折による寝たきり」と「ボケ」である。私は4年前に階段から転落し、1ヵ月後、意識不明となり、「慢性硬下膜血腫」、脳外科手術を行い、11日間入院したことがあった。これは放置しておくと「ボケ」になりやすいので、記憶を取り戻す努力が必要であった。
 平成128月より自分史永和会に入会しており、月に1回の例会には、自分で作った文章で5頁程度のものを朗読している。ホームページの基本料金でカバーされる容量は、8年前は10メガバイトで、現在はその10倍の100メガバイトになり、これをフールに活用するために、「太平洋戦争と戦後の情報処理実務体験記」なるものを、私のホームページにアップロードした。
 研究会の会員は5名であるが、会員の中で「ブログ」を始めた人がおり、私はホームページとは別に、Niftyの無料ブログ「ココログ」をはじめたのが、198月からである。
ブログの名称は「新規業務へのチャレンジ」で、本日の時点(20122日)での投稿数は734件(アクセス数=15,243件)である。また、本年の8月より開始した NiftyBASIC ブログには、今回で120件になり、アクセス件数は566件であった。昨年の815日より現在まで日数は467日であるが、ブログへのアップロード数は854件であった。アクセス件数合計は15,809件である。
 
私のブログを見た人が本日、何人、何件あったか?どんなキーワードで検索しているか?どんな文章が読者に興味があるか?などの問題意識を持つようになる。これは高齢者の目標設定にはプラスと考えられる。
 
ホームページでは自分の書いたものが、検索の1頁に表示されるということが、投稿者の最大の関心事である。1頁目には通常10件が表示される。プロバイダー Googleで、次のようなキーワードで検索を行った。
自分史-2,960,000件、画像-454,000,000
 私がアップロードした画像が45千4百万件のうちに選びだされることも、また私の自分史が296万件のうちに選びだされることもまずない。しかしながら、下記の[キーワード]を使用すると、検索の1頁に表示された。
[
画像自分史]
1
 新規業務へのチャレンジ ZY画像自分史
2位 私の画像自分史

3  画像自分史その一

4位 自分史永和会


画像自分史という合成語は、どこにもない新語であるが、この[画像自分史]というタイトルで投稿を行っているために、このタイトルを使っているものが最優先的に検索されている。画像がすばらしいとか、自分史の内容がよいというものでなく、これは[ロボット]検索での一つの特徴でもある。
以上1

2008年11月30日 (日)

Qf 古希以降の仕事 118 自分史の編集

 パソコンの対象業務として自分史の編集を思いたったのは、昭和六十三年であった。これは少年時代より還暦までの自分史の編集であった。これから二十年、経過しているが、自分史の編集は続行している。二十年前の自分史はソフトとして「メモ」を使用しているため、FD3.5吋には充分収まる容量であったが、その後、CDの開発、ホームページでは10メガバイト、20メガバイト、100メガバイトに基本容量が拡大されたため、これに併せて自分史の内容も下記のように変化している。

自分史の編集展開チャート

Qf 古希以降の仕事 117 トラブルに備えて外部記憶にバックアップ

  パソコンを所持していると、この機械の有効的な利用方法を考える。常時、記憶している必要はないが、戦時中、どこに住んでいたか?戦後は、またどの会社に勤務していたか?パソコンで重要なデータはバックアップをとくことが常識となっている。下記をクリックすると、当時のことを思い出させる手がかりとなる。

居住地、学校、勤務地

 上記は年齢が80歳、90歳となっても同じデータが表示される。また、今まで、どのような仕事に、どれぐらいのマンパーを投入してきたか?下記をクリックすると、ある程度の答が出てくる。

業種別従事月数の推定

 

Qf 古希以降の仕事 116 同期生連絡誌[三期便り]の編集協力

  昭和十六年四月に熊本、米子、印旛、新潟および仙台の五ヶ所の養成所に各々六十名、合計三百名が入所し、十九年四月に適性検査により操縦は米子、整備は新潟に集結した。そして二十年八月に終戦を迎えた。最初に入所した養成所ごとに同期生会が開催されていた。米子の三期生会は最初の会合を三十年九月十八日に米子皆生温泉鉄道康生寮で開催、この時、私は発起人の一人になっていた。
  米子は五十年前の養成所の建物は陸上自衛隊が使用しているため、大部分が保存され教官や職員で米子在住の人が多いため、二十名程度の三期生会に教職員や米子航友会長馬詰太郎氏らが常時、五、六名出席されていた。
  このとき養成所時代の資料を配布されていた。在学中に知らなかった情報を戦後知る機会があった。米子で同期生会が開催されるときは自衛隊の許可を得て見学していた。この自衛隊の中に資料室があり、養成所時代の制服や特攻隊で戦死した操縦生の遺書などが陳列されていた。自衛隊の正門の横には記念碑が建立され、その近くには原寸大の九五式練習機が展示されていた。他の養成所跡は記念碑のみで建物などは消滅していた。
  印旛から新潟に転属し、新潟でともに学んだことがある高野弘行氏が中心となり、平成元年二月、各地養成所の東京在住のものが招集され、航空機乗員養成所本科三期全国大会を開催することになり、私はこの幹事会に出席した。東京在住の米子出身の同期生は私を除いては操縦科にまわったため、新潟に転属した高野氏とは今まで全く面識が無かった。
 
平成二年四月十四日、京都の堀川会館で第一回全国大会が開催された。判明していた二百四名の同期生の内、南は鹿児島、北は北海道から集まり総員六十四名が出席した。この大会の終了後の五月十九日に東京で幹事慰労会があった。
  この大会を
今の後も継続するためには連絡誌の発行が必要と考えられ、私が編集長に指名された。私は昭和から平成に移る時点で私の昭和時代と題する自分史を編集しており、養成所入所前から終戦の年までの作文があったため、編集を引受けすることとなった。この同期会の連絡誌の編集に約二百時間を投入した。忙しいとい理由で辞退しても受けなければならない。私は一号と二号とを担当した。
  連絡誌一号は平成二年(京都大会)、二号は四年(東京)、三号は五年(熊本)、四号は六年(新潟)、五号は七年(米子)、六号は八年(仙台)、七号は九年(鳥羽)、八号は十年(鹿児島)、九号は十一年(横浜)、十号は十二年(別府)、このように編集は継続された。(  )内は開催地である。
 還暦を過ぎて初めてお目にかかる他の養成所の同期生とも知り合うようになり交友関係が広くなったのも、同期生会誌の編集協力のお陰であった。 
 

Qf 古希以降の仕事 115 同期生会出席で各地を旅行

自分史の編集において旅行というのは、記憶に残る出来事である。
その1 米子本科三期生会での旅行
 1941年4月28日より現在まで67年という歳月が流れているわけであるが、熊本、米子、印旛、新潟および仙台乗員養成所に入所した同期生はこの日を、出発点として忘れてはいない。入所して60周年に当たる1991年(平成3年)428日、第10回、米子本科三期同期生会を米子皆生温泉会館で開催、終戦時の同級生56名のうち消息確認43名、同期生出席者は26名、教官その他が8名、計34名であった。
 1941年4月に入所した米子本科三期生は19443月に操縦科と整備科とに振り分けられたが、この3年間は基礎教育であったが、このときの同期生は終戦10年にあたる195510月に第1回同期生会を開催し、以来24回、同期生会を開催した。
 米子航空機乗員養成所は、米子市皆生温泉地域にあったため、12回は米子で開催、主として米子温泉会館で開催、残り12回は、福岡サンパレス、福岡脇田温泉、福山対山館、神戸市幸せ村、別府市ふじの、別府温泉花菱、倉敷石山花壇、山口湯田温泉、坂出市なぎさ、三朝温泉、玉造温泉、熱海温泉ホテル池田であった。各地の同期生が開催地の世話人となって同期生会を開催した。20059月、米子本科三期生会解散。
 19459月に航空機乗員養成所を卒業した米子本科3期生56名は、戦後10となる1955年に、どこに居住していたか?これを調べると次の通りであった。岡山9名、広島9名、鳥取9名、福岡8名、山口6名、大分4名、大阪4名、佐賀3名、島根2名、徳島1名、熊本1名であった。戦後というのは観光旅行が出来るような時代ではなかったが、同期生会への出席によって国内旅行をすることができた。
その2 本科三期全国大会での旅行
 航空機乗員養成所本科三期生は1941428日に、熊本、米子、印旛、新潟および仙台乗員養成所に一学年として入所、基礎教育が行われていたが三学年終了時点で航空機乗員としての適性検査があり、結果によって操縦要員と整備要員に振分けられ、19443月末、操縦要員は米子航空機乗員養成所に、整備要員は新潟航空機乗員養成所にそれぞれ転属することとなった。
  4
学年生として各々専門教育を受けることになるが、1945年3月、航空燃料が逼迫して、操縦訓練を続行することは不可能となり、米子で操縦要員として訓練を受けていた三期生は松戸高等乗員養成所に転属した。これにより1941年4月に入所した本科三期生は全員、整備要員となった。
 
新潟で整備学習中の三期生は1945年5月末、明野陸軍航空隊へ出張、破損した液冷戦闘機[飛燕]の改装整備に従事し、815日、終戦を迎えた。敗戦により民間航空は禁止されたので、同期生は故郷へ帰り、それぞれの道に進んだ。
 各地養成所の三期生はそれぞれの養成所単位で、同期生会を開催していたが、戦後、44年経過した1989年2月に、各地養成所で首都圏に居住するものが世話役となり、本科三期全国大会を結成し、同期生会を毎年1回開催、開催地の幹事は仙台、印旛、米子、熊本、新潟、熊本で担当することとなった。入所時300名であったが、消息が判明していたのは140名程度であった。
 第1回は1990年2月、京都堀川会館で開催、72名が出席した。出席者の居住地は宮城県1名、千葉県5名、静岡県1名、愛知県4名、茨城県1名、東京都17名、山梨県1名、岐阜県1名、埼玉県3名、神奈川県4名、新潟県1名、三重県2名、和歌山県2名、京都府5名、鳥取県1名、福岡県2名、大阪府7名、広島県1名、熊本県8名、鹿児島県1名、兵庫県3名,山口県1名、宮崎県1名であった。同期生が各地に分散しているのが特徴である。
 
本科全国大会の持ち回りであるため開催地は①京都堀川会館第、②東京麹町会館、③熊本五峰閣、④新潟ホテル湖畔、⑤米子皆生温泉会館、⑥鳥羽シーサイドホテル,⑦鹿児島ロイヤルホテル、⑧松島・ホテル大観荘、⑨横浜中華街満珍楼、⑩別府花菱ホテル、⑪札幌定山渓温泉章月グランドであった。20016月、三期全国大会解散。
その3 乗員養成所関係の会合の出席
 米子航空機乗員養成所は1938年に開設され、1年間の短期養成として操縦生の訓練が行われ、また3年間教育の本科1期生と5年間の教育の3期生、5期生、7期生が同窓会的な性格を持つ米子航友会のメンバーである。米子および岡山で開催されたこの同窓会には案内をうけ3回程度参加したことがある。米子三期生会には24回のうち18回、全国大会には11回のうち7回は出席した。このうちの5回程度は家内を同伴した。
その4 同窓会出席のメリット
 自営業を行っているものは、同僚と旅行に出かけることは殆どないので、同期生会出席が私の観光旅行でもあった。ホテルのコンピユータソフト開発、宴会管理システムの開発を行っており、各地のホテルに宿泊するのも仕事の参考になった。 

Qf 古希以降の仕事 114 戦時中の友、同期生会への出席

   小学校、中学、高校、専門学校、大学と進学している人においては、それぞれの学校のクラスメートが発生し、同窓会の案内を受けることが多い。私は同窓会の出席では小学校が二回、高等小学校がゼロ、中学および高校に相当する航空機乗員養成所が三十五回、専門学校と大学が五回程度であり、航空機乗員養成所の同期生会に出席した回数がきわめて多いのが特徴であった。
 航空機乗員養成所は仙台、新潟、印旛、米子および熊本の五ヵ所に設置されており、太平洋戦争が勃発する八ヶ月前の昭和十六年四月に各々六十名が入所し、本科三期生は、全部で参百名であった。
  入所して三年間は普通学科で、四年生より操縦科は米子、整備科は新潟に転属することになり、終戦の時点では入所時の九割に相当する約二百八十名が同期生であった。
 同期生の中で航空事故による殉職、空襲その他戦死者が皆無であったことは、きわめて幸運なグループであった。
 戦後、開催された同期生会は最初に入所した養成所ごとに開催されたが、戦後、四十六年経過した平成三年に五ヵ所の養成所の同期生の合同の全国三期同期会が発足した。
 米子本科三期生会は毎年一回開催され、これに出席していたが、還暦より新たに全国組織での同期生会が毎年一回開催されるようになった。米子出身の同期生で東京二十三区に
居住しているものは私だけであり、全国組織における連絡会議には出席せざるを得なかった。従来、継続していた同期生会に還暦より新たに全国組織の同期生会が発足した。還暦前の同期生会は発足して三十二年間で十回、これに対して還暦から十六年間で米子三期会が十四回、全国大会が十一回で、合計二十五回であった。これは還暦前と還暦後とは、同期生会の開催が五倍に増加したことになった。
 東京在住の人が、東京の学校を卒業して、同期生会に出席するのと異なり、三期生の卒業生は約二百八十名で同期生の居住地が北海道から鹿児島まで分散しており、戦後六十年経過した現在、消息が判明している同期生は約百五十名であった。。同期生会の開催は各地の同期生が世話人となって、持ち回りで行っていたため、私が出席した同期生会の開催地は米子皆生、玉造、三朝、岡山、倉敷、坂出、湯田、別府、福岡、京都、東京、新潟、仙台、札幌であり、旅行友の会的な色彩の強い同期生会であった。記念写真には開催年月日と同期生会開催番号が表示されているので、自分史の作成においては有効な資料となった。
 米子の同期生会が発足したのは、戦後十年経過した昭和三十年九月であった。同期生会には多数の教官、職員も出席されており、戦時中知らなかった情報も教官あるいは同期会幹事より提供された資料で判明した。
   
養成所入所当時の募集広告、入所試験での国語、数学、理科の諸問題、応募人数と合格者数、入所願書に添付した十三歳の自分の写真も保存しており、自分史の出発点となる少年時代というのが文章に綴りやすいというのが私の自分史の特徴である。
   
米子三期会には総務幹事として松本好信君、全国大会には事務局担当として高野弘行君がおり、これらの同期生から送られる資料をスキャナーでパソコンに取り込めば、自分史での少年時代とその後の同期生という物語が書ける。
   全国三期生会は平成十三年六月、第十一回を北海道定山渓温泉賞月グランドホテルで開催、これで解散となった。また米子三期会も平成十七年九月、北九州脇田温泉ホテル菊水閣での第二十四回同期会で解散となった。このとき有終の美を飾るため、「米航養本科三期生情報」なるものを編集、会員三十名に発送された。私はこの三期生情報に同期生会の記念写真をスキャナーでとり、これを私の自分史の中に組み入れ、ホームページにアップロードした。

米航養本科三期生会情報

Qf 古希以降の仕事 113 自分史研究会へ入会 

  平成十二年四月よりスタートした杉並IT&パソコン講習会で地域社会のボランチィア活動に参加した。同年七月二十二日と二十三日に杉並区永福・和泉地域区民センター祭が開催され、同センターに自主グループとして団体登録を行っている「自分史永和会」が展示会に出品していた。
  同じ展示室に書道の展示があり、家内が「自分史永和会」の会場で、パソコンの勉強会も行われるとのことで私にこの会に入会するように勧めてくれた。早速、入会した。
  八月二十日よりの会合から出席することとなった。最初の出席の前に私の自分史「生い立ちから終戦まで」を事務局担当山口氏に送付した。八月二十日の会合には私の自分史を氏が朗読してくれました。当日、午後三時より暑気払いを兼ねての懇談会があり、参加した。平成二十年十一月まで例会はちょうど百回があり全部、出席した。
  事務局を担当する山口氏が平成十四年三月から八月まで六ヶ月間、バンコックへ会社の業務で長期出張することになり、また平成十八年八月より十九年一月までの六ヶ月間、ヨ
ルダンのアンマンに会社の業務で長期出張となる。
  このため、会計と事務局とを担当する
ケースが発生した。山口氏の海外出張の余暇でデジカメで撮影された映像とレポートとが週に二回程度会員に送信されるが、インターネットを利用していない会員もあるため、送付資料は私のパソコンにダンロードして、センターより借り受けた液晶プロジェクターで内容の紹介を行った。
  平成十六年九月より十八年十二月までの二年四ヶ月、自分史永和会の代表になった。十九年一月より代表は山口氏、会計担当は私、事務局は高橋氏となり、山口氏の海外出張での会の運営の円滑化を図るため、改選を行った。研究会は第二日曜日の午前九時より十二時までであるが、発表できる資料を常時、準備しておく必要がある。自分史の作成経過を研究会でしばしば発表している。

Qf 古希以降の仕事 112 杉並区IT&パソコン講習ボランチィア

 平成十二年二月ごろ杉並区でIT&パソコン講習のボランチィアが募集され、これに応募した。昭和四十四年五月より航空と海上との輸送方法比較でSOHO業者として独立、四十六年七月より現在のパソコンの元祖となるマイクロ・コンピユータのソフト開発と機械の販売に従事し、六十三年四月より国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習講師となった。
 
Window95が発表されていない時代ではソフトや機械を販売する取引先に対して、漢字などの入力方法を教える必要はないが、開発したソフトの説明では、メモ程度の知識でワープロ操作ができれば充分であった。
 専門学校のOA授業の講師を九年間従事したが、学生に日本語の漢字変換などを教えたことはなかった。これはワープロの講師が別に任命されており、私が開発したプログラムを学生が機械操作することにより、業務の流れを理解させることが、実務教育であった。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習会では、一クラスに二十名の受講者に対して講師一名、ボランチィア助手四名の構成であった。操作が不慣れの受講者をサポートする仕事であった。コースとしては一日三時間のコースで四回であった。初年度は五十時間程度、講習会助手として従事した。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習ボランチィアは初級コースであり、十三年四月より杉並区内の図書館でパソコン講習補講講座に切り替わった。これは初級コースで理解できなかった人に対する補講で、私は属していた高井戸図書館では十台のパソコンで、ボランチィアが三名で毎週木曜日の午前九時から十二時、午後一時より四時を担当、特別な授業はなく機械操作や質問事項があれば、これに対応する。初級コースが前提であるため、表計算やデジカメなどの質問はあまり発生しなかった。
 
十六年四月より杉並区高井戸地域センターで毎月、第二木曜日と第四日曜日に午前十時より午後五時までの間、パソコン相談室が開設された。十六年度のボランチィアの希望者が少なかったのでボランチィアを応募したが、十七年四月より希望者が多くなったため二ヶ月に一回のボランチィアとなり、十一月よりの相談員の仕事を修了することにした。
 パソコンで発生する諸問題を研究し、質問があればこれに応ずるという相談員の仕事は年齢が高齢化すると記憶力が低下するため、困難になってくる。
  平成十二年八月より自分史永和会に入会した。人に教えるよりも自分の記録を、メモ程度のソフトで作文することに方針を転換した。
    


 


Qf 古希以降の仕事 111 会社事務所の移転記録

 十六年間勤務してきた阪急交通社を依願退職したのが昭和四十四年四月末で年齢は四十二歳であった。会社で研究した事項を基礎に第二の人生を歩むことにした。 

 五月一日に、渋谷区初台1丁目で坂本システム研究所を設立し、賃貸マンシヨン3LDKの一室を事務所として従業員なし、車両なしの典型的なSOHO業者であった。
 航空貨物の販売促進ツールの開発が本来のビジネスであったが、開業して十年後の五十四年にホテル・レストラン内装工事設計管理会社、株式会社エクスブレイン・インダストリー(以後EX社と仮称、代表取締役社長三木正也氏)にキャノンパソコンを販売、経理関係のソフトを開発、納入した。これがきっかけで色々なソフト開発を受注、五十八年よりホテル建設事業計画を開発、その後、ホテルコンピユータの開発を行った。
 
   昭和六十二年二月にEX社と共同出資により、ソアレックス株式会社を設立した。資本金一千二百万円で、代表取締役会長が三木正也氏、代表取締役社長が私であった。事務所は港区赤坂三丁目十三番地の東相ビル七階で、EX社の事務所の一角を借りた。社員は私だけであるが、EX社の関連会社として同社の経理関係のソフトの保守ならびに、ホテル建設事業計画の手伝いも行っていた。
 
平成五年十月にEX社は新宿区下落合三丁目四番十一号、三木正也宅の構内に移転し、ソアレックス㈱も三木宅に移転した。三木宅は古い建物であったが、戦後、皇太子殿下の英語の先生であった。バイニング女史が住んでおられた家であった。
 
三木宅は十一年四月に取り壊しとなり、ソアレックス㈱の事務所は杉並区高井戸西一丁目の自宅に移転した。SOHO業者として最初から一名で仕事をしており、ソフト開発と云うものは後継者を育てることはきわめてむずかしい。
   
高齢となるにつれて廃業せざるを得なくなったが、
健康で還暦より七十三歳まで仕事があったことは恵まれていたかもしれない。


2008年11月29日 (土)

Qf 古希以降の仕事 110 建設事業計画ソフト開発と計算委託 

   昭和六十三年四月に国際観光専門学校東京校国際ホテル学科のコンピユータ授業に必要なホテルフロント会計システムを開発、納入し、毎週水曜日に午前九時より午後四時までコンピユータ実習授業を担当した。
  これは学校とソアレックス株式会社で講師派遣契約を締結し、ソフト開発を行った私が講師として派遣された。当初の実習はホテルフロント会計が主であったが、次年度からは学校側に提案し、宴会管理や食材管理などを実習に追加して教材の充実を図った。
  平成八年四月からは航空輸送学科の[航空貨物]という授業を担当、プログラムを開発して、阪急およびフライング・タイガー航空会社に在職中研究していた航空輸送分野の業務処理をパソコンにより紹介した。
 
平成九年三月、古希を迎えた。学校側のパソコンにおける授業方針の変更があり、講師として九年間継続した時点で講師契約の終了となった。昭和十六年四月に航空機乗員養成所に入所したが、六十九歳になって航空輸送学科の非常勤講師となったことは、きわめて意義があったものと思う。
 ホテルコンピユータソフト開発・販売をビジネスとして、ソアレックス会社を設立しており、一週間に一日だけは講師派遣契約により学校へ出勤しているが、その他の日は会社に出勤していた。ホテルに機械を販売し、ソフトを開発、納入すると約五年間はアフターサービスを必要とし、高齢化して健康を害して保守サービスができないと顧客に迷惑がかかるため、六十五歳以降はホテルヘのセールスを行わなかった。
 専門学校のOA授業と共同出資会社から依頼されホテル建設事業計画のソフト開発と計
算業務を行つていた。建設事業計画には二種類があり、ホテル会社が自社で土地、建物を購入し、ホテルを経営する場合と、リース会社がと土地と建物とを購入し、これをホテルに、リース物件として提供する場合があり、今回は、リースとしての建設事業計画をBASIC 言語で開発した。これをDCF建設事業計画と名付けた。

DCF建設事業計画

昭和58年に開発したホテル建設事業計画は別名が[ホテル経営計画支援ソフト」であり、BASIC言語で開発した。

ホテル経営計画支援

  上記2種類のプログラムの発注先は、エクスブレイン・インダストリー社で、昭和54年4月に、内装工事設計管理会社の経理ソフトを開発、62年2月に同社と共同出資でソアレックス株式会社を設立した。
  専門学校の講師の仕事も終わり、ホテルへのソフトメンテナンスの仕事も終わった。同社より依頼された業務は、DCF建設事業計画による計算受託業務であった。これが、古希以降の仕事となった。

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