戦時中四年半にわたり集団生活をした少年というのは、[同じ釜の飯を食った仲間]として、ある種の連帯感がある。還暦を過ぎて、新しい同期生会を結成することになった。これには連絡誌が必要となり、ワープロができるものに[白羽の矢]が立つ。
昭和十六年四月に熊本、米子、印旛、新潟および仙台の五ヶ所の養成所に各々六十名、合計三百名が入所し、十九年四月に適性検査により操縦は米子、整備は新潟に集結し、そして二十年八月に終戦を迎えた。
最初に入所した養成所ごとに同期生会が開催されており、米子の三期生会は最初の会合を三十年九月十八日に米子市皆生温泉鉄道康生寮で開催、この時、私は発起人の一人になっていた。
米子は五十年前の養成所の建物は陸上自衛隊が使用しているため、大部分が保存され教官や職員で米子市在住の人が多いため、二十名程度の三期生会に教職員や米子航友会長馬詰太郎氏らが常時、五、六名出席されていた。
このとき養成所時代の資料を配布されていた。在学中に知らなかった情報を戦後知る機会があった。米子で同期生会が開催されるときは自衛隊の許可を得て見学していた。
この自衛隊の中に資料室があり、養成所時代の制服や特攻隊で戦死した操縦生の遺書などが陳列されていた。自衛隊の正門の横には記念碑が建立され、その近くには原寸大の九五式練習機が展示されていた。他の養成所跡は記念碑のみで建物などは消滅していた。
印旛から新潟に転属し、新潟でともに学んだことがある高野弘行氏が中心となり、平成元年二月、各地養成所の東京在住のものが招集され、航空機乗員養成所本科三期全国大会を開催することになり、私はこの幹事会に出席した。
平成二年四月十四日、京都の堀川会館で第一回全国大会が開催された。判明していた二百四名の同期生の内、南は鹿児島、北は北海道から集まり総員六十四名が出席した。この大会の終了後の五月十九日に東京で幹事慰労会があり、この大会を今後も継続するためには連絡誌の発行が必要と考えられ、私が編集長に指名された。
私は昭和から平成に移る時点で私の昭和時代と題する自分史を編集しており、養成所入所前から終戦の年までの作文があったため、編集を引受けすることとなった。
この同期会の連絡誌の編集に約二百時間を投入した。忙しいとい理由で辞退しても受けざるを得ない。これは順番制と解釈すると一度これを行えば次は誰かに移管できると考えた。このような仕事はワープロを使えるかどうかでイエスという返事を行う。私は一号と二号とを担当した。
連絡誌一号は平成二年に京都、二号は四年に東京、三号は五年に熊本、四号は六年に新潟、五号は七年に米子、六号は八年に仙台、七号は九年に鳥羽、八号は十年に鹿児島、九号は十一年に横浜、十号は十二年に別府を開催地として同期生会の開催状況を掲載した。十三年六月に第十一回全国大会は北海道で開催され、会員が高齢となったため、同期生全国大会は解散となった。自分史の編集というのは、同期生会の連絡誌の出版に必要な資料を保存しているため同期生会誌の編集には協力できる立場にあった。