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2008年11月

2008年11月30日 (日)

Qf 古希以降の仕事 118 自分史の編集

 パソコンの対象業務として自分史の編集を思いたったのは、昭和六十三年であった。これは少年時代より還暦までの自分史の編集であった。これから二十年、経過しているが、自分史の編集は続行している。二十年前の自分史はソフトとして「メモ」を使用しているため、FD3.5吋には充分収まる容量であったが、その後、CDの開発、ホームページでは10メガバイト、20メガバイト、100メガバイトに基本容量が拡大されたため、これに併せて自分史の内容も下記のように変化している。

自分史の編集展開チャート

Qf 古希以降の仕事 117 トラブルに備えて外部記憶にバックアップ

  パソコンを所持していると、この機械の有効的な利用方法を考える。常時、記憶している必要はないが、戦時中、どこに住んでいたか?戦後は、またどの会社に勤務していたか?パソコンで重要なデータはバックアップをとくことが常識となっている。下記をクリックすると、当時のことを思い出させる手がかりとなる。

居住地、学校、勤務地

 上記は年齢が80歳、90歳となっても同じデータが表示される。また、今まで、どのような仕事に、どれぐらいのマンパーを投入してきたか?下記をクリックすると、ある程度の答が出てくる。

業種別従事月数の推定

 

Qf 古希以降の仕事 116 同期生連絡誌[三期便り]の編集協力

  昭和十六年四月に熊本、米子、印旛、新潟および仙台の五ヶ所の養成所に各々六十名、合計三百名が入所し、十九年四月に適性検査により操縦は米子、整備は新潟に集結した。そして二十年八月に終戦を迎えた。最初に入所した養成所ごとに同期生会が開催されていた。米子の三期生会は最初の会合を三十年九月十八日に米子皆生温泉鉄道康生寮で開催、この時、私は発起人の一人になっていた。
  米子は五十年前の養成所の建物は陸上自衛隊が使用しているため、大部分が保存され教官や職員で米子在住の人が多いため、二十名程度の三期生会に教職員や米子航友会長馬詰太郎氏らが常時、五、六名出席されていた。
  このとき養成所時代の資料を配布されていた。在学中に知らなかった情報を戦後知る機会があった。米子で同期生会が開催されるときは自衛隊の許可を得て見学していた。この自衛隊の中に資料室があり、養成所時代の制服や特攻隊で戦死した操縦生の遺書などが陳列されていた。自衛隊の正門の横には記念碑が建立され、その近くには原寸大の九五式練習機が展示されていた。他の養成所跡は記念碑のみで建物などは消滅していた。
  印旛から新潟に転属し、新潟でともに学んだことがある高野弘行氏が中心となり、平成元年二月、各地養成所の東京在住のものが招集され、航空機乗員養成所本科三期全国大会を開催することになり、私はこの幹事会に出席した。東京在住の米子出身の同期生は私を除いては操縦科にまわったため、新潟に転属した高野氏とは今まで全く面識が無かった。
 
平成二年四月十四日、京都の堀川会館で第一回全国大会が開催された。判明していた二百四名の同期生の内、南は鹿児島、北は北海道から集まり総員六十四名が出席した。この大会の終了後の五月十九日に東京で幹事慰労会があった。
  この大会を
今の後も継続するためには連絡誌の発行が必要と考えられ、私が編集長に指名された。私は昭和から平成に移る時点で私の昭和時代と題する自分史を編集しており、養成所入所前から終戦の年までの作文があったため、編集を引受けすることとなった。この同期会の連絡誌の編集に約二百時間を投入した。忙しいとい理由で辞退しても受けなければならない。私は一号と二号とを担当した。
  連絡誌一号は平成二年(京都大会)、二号は四年(東京)、三号は五年(熊本)、四号は六年(新潟)、五号は七年(米子)、六号は八年(仙台)、七号は九年(鳥羽)、八号は十年(鹿児島)、九号は十一年(横浜)、十号は十二年(別府)、このように編集は継続された。(  )内は開催地である。
 還暦を過ぎて初めてお目にかかる他の養成所の同期生とも知り合うようになり交友関係が広くなったのも、同期生会誌の編集協力のお陰であった。 
 

Qf 古希以降の仕事 115 同期生会出席で各地を旅行

自分史の編集において旅行というのは、記憶に残る出来事である。
その1 米子本科三期生会での旅行
 1941年4月28日より現在まで67年という歳月が流れているわけであるが、熊本、米子、印旛、新潟および仙台乗員養成所に入所した同期生はこの日を、出発点として忘れてはいない。入所して60周年に当たる1991年(平成3年)428日、第10回、米子本科三期同期生会を米子皆生温泉会館で開催、終戦時の同級生56名のうち消息確認43名、同期生出席者は26名、教官その他が8名、計34名であった。
 1941年4月に入所した米子本科三期生は19443月に操縦科と整備科とに振り分けられたが、この3年間は基礎教育であったが、このときの同期生は終戦10年にあたる195510月に第1回同期生会を開催し、以来24回、同期生会を開催した。
 米子航空機乗員養成所は、米子市皆生温泉地域にあったため、12回は米子で開催、主として米子温泉会館で開催、残り12回は、福岡サンパレス、福岡脇田温泉、福山対山館、神戸市幸せ村、別府市ふじの、別府温泉花菱、倉敷石山花壇、山口湯田温泉、坂出市なぎさ、三朝温泉、玉造温泉、熱海温泉ホテル池田であった。各地の同期生が開催地の世話人となって同期生会を開催した。20059月、米子本科三期生会解散。
 19459月に航空機乗員養成所を卒業した米子本科3期生56名は、戦後10となる1955年に、どこに居住していたか?これを調べると次の通りであった。岡山9名、広島9名、鳥取9名、福岡8名、山口6名、大分4名、大阪4名、佐賀3名、島根2名、徳島1名、熊本1名であった。戦後というのは観光旅行が出来るような時代ではなかったが、同期生会への出席によって国内旅行をすることができた。
その2 本科三期全国大会での旅行
 航空機乗員養成所本科三期生は1941428日に、熊本、米子、印旛、新潟および仙台乗員養成所に一学年として入所、基礎教育が行われていたが三学年終了時点で航空機乗員としての適性検査があり、結果によって操縦要員と整備要員に振分けられ、19443月末、操縦要員は米子航空機乗員養成所に、整備要員は新潟航空機乗員養成所にそれぞれ転属することとなった。
  4
学年生として各々専門教育を受けることになるが、1945年3月、航空燃料が逼迫して、操縦訓練を続行することは不可能となり、米子で操縦要員として訓練を受けていた三期生は松戸高等乗員養成所に転属した。これにより1941年4月に入所した本科三期生は全員、整備要員となった。
 
新潟で整備学習中の三期生は1945年5月末、明野陸軍航空隊へ出張、破損した液冷戦闘機[飛燕]の改装整備に従事し、815日、終戦を迎えた。敗戦により民間航空は禁止されたので、同期生は故郷へ帰り、それぞれの道に進んだ。
 各地養成所の三期生はそれぞれの養成所単位で、同期生会を開催していたが、戦後、44年経過した1989年2月に、各地養成所で首都圏に居住するものが世話役となり、本科三期全国大会を結成し、同期生会を毎年1回開催、開催地の幹事は仙台、印旛、米子、熊本、新潟、熊本で担当することとなった。入所時300名であったが、消息が判明していたのは140名程度であった。
 第1回は1990年2月、京都堀川会館で開催、72名が出席した。出席者の居住地は宮城県1名、千葉県5名、静岡県1名、愛知県4名、茨城県1名、東京都17名、山梨県1名、岐阜県1名、埼玉県3名、神奈川県4名、新潟県1名、三重県2名、和歌山県2名、京都府5名、鳥取県1名、福岡県2名、大阪府7名、広島県1名、熊本県8名、鹿児島県1名、兵庫県3名,山口県1名、宮崎県1名であった。同期生が各地に分散しているのが特徴である。
 
本科全国大会の持ち回りであるため開催地は①京都堀川会館第、②東京麹町会館、③熊本五峰閣、④新潟ホテル湖畔、⑤米子皆生温泉会館、⑥鳥羽シーサイドホテル,⑦鹿児島ロイヤルホテル、⑧松島・ホテル大観荘、⑨横浜中華街満珍楼、⑩別府花菱ホテル、⑪札幌定山渓温泉章月グランドであった。20016月、三期全国大会解散。
その3 乗員養成所関係の会合の出席
 米子航空機乗員養成所は1938年に開設され、1年間の短期養成として操縦生の訓練が行われ、また3年間教育の本科1期生と5年間の教育の3期生、5期生、7期生が同窓会的な性格を持つ米子航友会のメンバーである。米子および岡山で開催されたこの同窓会には案内をうけ3回程度参加したことがある。米子三期生会には24回のうち18回、全国大会には11回のうち7回は出席した。このうちの5回程度は家内を同伴した。
その4 同窓会出席のメリット
 自営業を行っているものは、同僚と旅行に出かけることは殆どないので、同期生会出席が私の観光旅行でもあった。ホテルのコンピユータソフト開発、宴会管理システムの開発を行っており、各地のホテルに宿泊するのも仕事の参考になった。 

Qf 古希以降の仕事 114 戦時中の友、同期生会への出席

   小学校、中学、高校、専門学校、大学と進学している人においては、それぞれの学校のクラスメートが発生し、同窓会の案内を受けることが多い。私は同窓会の出席では小学校が二回、高等小学校がゼロ、中学および高校に相当する航空機乗員養成所が三十五回、専門学校と大学が五回程度であり、航空機乗員養成所の同期生会に出席した回数がきわめて多いのが特徴であった。
 航空機乗員養成所は仙台、新潟、印旛、米子および熊本の五ヵ所に設置されており、太平洋戦争が勃発する八ヶ月前の昭和十六年四月に各々六十名が入所し、本科三期生は、全部で参百名であった。
  入所して三年間は普通学科で、四年生より操縦科は米子、整備科は新潟に転属することになり、終戦の時点では入所時の九割に相当する約二百八十名が同期生であった。
 同期生の中で航空事故による殉職、空襲その他戦死者が皆無であったことは、きわめて幸運なグループであった。
 戦後、開催された同期生会は最初に入所した養成所ごとに開催されたが、戦後、四十六年経過した平成三年に五ヵ所の養成所の同期生の合同の全国三期同期会が発足した。
 米子本科三期生会は毎年一回開催され、これに出席していたが、還暦より新たに全国組織での同期生会が毎年一回開催されるようになった。米子出身の同期生で東京二十三区に
居住しているものは私だけであり、全国組織における連絡会議には出席せざるを得なかった。従来、継続していた同期生会に還暦より新たに全国組織の同期生会が発足した。還暦前の同期生会は発足して三十二年間で十回、これに対して還暦から十六年間で米子三期会が十四回、全国大会が十一回で、合計二十五回であった。これは還暦前と還暦後とは、同期生会の開催が五倍に増加したことになった。
 東京在住の人が、東京の学校を卒業して、同期生会に出席するのと異なり、三期生の卒業生は約二百八十名で同期生の居住地が北海道から鹿児島まで分散しており、戦後六十年経過した現在、消息が判明している同期生は約百五十名であった。。同期生会の開催は各地の同期生が世話人となって、持ち回りで行っていたため、私が出席した同期生会の開催地は米子皆生、玉造、三朝、岡山、倉敷、坂出、湯田、別府、福岡、京都、東京、新潟、仙台、札幌であり、旅行友の会的な色彩の強い同期生会であった。記念写真には開催年月日と同期生会開催番号が表示されているので、自分史の作成においては有効な資料となった。
 米子の同期生会が発足したのは、戦後十年経過した昭和三十年九月であった。同期生会には多数の教官、職員も出席されており、戦時中知らなかった情報も教官あるいは同期会幹事より提供された資料で判明した。
   
養成所入所当時の募集広告、入所試験での国語、数学、理科の諸問題、応募人数と合格者数、入所願書に添付した十三歳の自分の写真も保存しており、自分史の出発点となる少年時代というのが文章に綴りやすいというのが私の自分史の特徴である。
   
米子三期会には総務幹事として松本好信君、全国大会には事務局担当として高野弘行君がおり、これらの同期生から送られる資料をスキャナーでパソコンに取り込めば、自分史での少年時代とその後の同期生という物語が書ける。
   全国三期生会は平成十三年六月、第十一回を北海道定山渓温泉賞月グランドホテルで開催、これで解散となった。また米子三期会も平成十七年九月、北九州脇田温泉ホテル菊水閣での第二十四回同期会で解散となった。このとき有終の美を飾るため、「米航養本科三期生情報」なるものを編集、会員三十名に発送された。私はこの三期生情報に同期生会の記念写真をスキャナーでとり、これを私の自分史の中に組み入れ、ホームページにアップロードした。

米航養本科三期生会情報

Qf 古希以降の仕事 113 自分史研究会へ入会 

  平成十二年四月よりスタートした杉並IT&パソコン講習会で地域社会のボランチィア活動に参加した。同年七月二十二日と二十三日に杉並区永福・和泉地域区民センター祭が開催され、同センターに自主グループとして団体登録を行っている「自分史永和会」が展示会に出品していた。
  同じ展示室に書道の展示があり、家内が「自分史永和会」の会場で、パソコンの勉強会も行われるとのことで私にこの会に入会するように勧めてくれた。早速、入会した。
  八月二十日よりの会合から出席することとなった。最初の出席の前に私の自分史「生い立ちから終戦まで」を事務局担当山口氏に送付した。八月二十日の会合には私の自分史を氏が朗読してくれました。当日、午後三時より暑気払いを兼ねての懇談会があり、参加した。平成二十年十一月まで例会はちょうど百回があり全部、出席した。
  事務局を担当する山口氏が平成十四年三月から八月まで六ヶ月間、バンコックへ会社の業務で長期出張することになり、また平成十八年八月より十九年一月までの六ヶ月間、ヨ
ルダンのアンマンに会社の業務で長期出張となる。
  このため、会計と事務局とを担当する
ケースが発生した。山口氏の海外出張の余暇でデジカメで撮影された映像とレポートとが週に二回程度会員に送信されるが、インターネットを利用していない会員もあるため、送付資料は私のパソコンにダンロードして、センターより借り受けた液晶プロジェクターで内容の紹介を行った。
  平成十六年九月より十八年十二月までの二年四ヶ月、自分史永和会の代表になった。十九年一月より代表は山口氏、会計担当は私、事務局は高橋氏となり、山口氏の海外出張での会の運営の円滑化を図るため、改選を行った。研究会は第二日曜日の午前九時より十二時までであるが、発表できる資料を常時、準備しておく必要がある。自分史の作成経過を研究会でしばしば発表している。

Qf 古希以降の仕事 112 杉並区IT&パソコン講習ボランチィア

 平成十二年二月ごろ杉並区でIT&パソコン講習のボランチィアが募集され、これに応募した。昭和四十四年五月より航空と海上との輸送方法比較でSOHO業者として独立、四十六年七月より現在のパソコンの元祖となるマイクロ・コンピユータのソフト開発と機械の販売に従事し、六十三年四月より国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習講師となった。
 
Window95が発表されていない時代ではソフトや機械を販売する取引先に対して、漢字などの入力方法を教える必要はないが、開発したソフトの説明では、メモ程度の知識でワープロ操作ができれば充分であった。
 専門学校のOA授業の講師を九年間従事したが、学生に日本語の漢字変換などを教えたことはなかった。これはワープロの講師が別に任命されており、私が開発したプログラムを学生が機械操作することにより、業務の流れを理解させることが、実務教育であった。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習会では、一クラスに二十名の受講者に対して講師一名、ボランチィア助手四名の構成であった。操作が不慣れの受講者をサポートする仕事であった。コースとしては一日三時間のコースで四回であった。初年度は五十時間程度、講習会助手として従事した。
 平成十二年四月よりスタートした杉並区IT&パソコン講習ボランチィアは初級コースであり、十三年四月より杉並区内の図書館でパソコン講習補講講座に切り替わった。これは初級コースで理解できなかった人に対する補講で、私は属していた高井戸図書館では十台のパソコンで、ボランチィアが三名で毎週木曜日の午前九時から十二時、午後一時より四時を担当、特別な授業はなく機械操作や質問事項があれば、これに対応する。初級コースが前提であるため、表計算やデジカメなどの質問はあまり発生しなかった。
 
十六年四月より杉並区高井戸地域センターで毎月、第二木曜日と第四日曜日に午前十時より午後五時までの間、パソコン相談室が開設された。十六年度のボランチィアの希望者が少なかったのでボランチィアを応募したが、十七年四月より希望者が多くなったため二ヶ月に一回のボランチィアとなり、十一月よりの相談員の仕事を修了することにした。
 パソコンで発生する諸問題を研究し、質問があればこれに応ずるという相談員の仕事は年齢が高齢化すると記憶力が低下するため、困難になってくる。
  平成十二年八月より自分史永和会に入会した。人に教えるよりも自分の記録を、メモ程度のソフトで作文することに方針を転換した。
    


 


Qf 古希以降の仕事 111 会社事務所の移転記録

 十六年間勤務してきた阪急交通社を依願退職したのが昭和四十四年四月末で年齢は四十二歳であった。会社で研究した事項を基礎に第二の人生を歩むことにした。 

 五月一日に、渋谷区初台1丁目で坂本システム研究所を設立し、賃貸マンシヨン3LDKの一室を事務所として従業員なし、車両なしの典型的なSOHO業者であった。
 航空貨物の販売促進ツールの開発が本来のビジネスであったが、開業して十年後の五十四年にホテル・レストラン内装工事設計管理会社、株式会社エクスブレイン・インダストリー(以後EX社と仮称、代表取締役社長三木正也氏)にキャノンパソコンを販売、経理関係のソフトを開発、納入した。これがきっかけで色々なソフト開発を受注、五十八年よりホテル建設事業計画を開発、その後、ホテルコンピユータの開発を行った。
 
   昭和六十二年二月にEX社と共同出資により、ソアレックス株式会社を設立した。資本金一千二百万円で、代表取締役会長が三木正也氏、代表取締役社長が私であった。事務所は港区赤坂三丁目十三番地の東相ビル七階で、EX社の事務所の一角を借りた。社員は私だけであるが、EX社の関連会社として同社の経理関係のソフトの保守ならびに、ホテル建設事業計画の手伝いも行っていた。
 
平成五年十月にEX社は新宿区下落合三丁目四番十一号、三木正也宅の構内に移転し、ソアレックス㈱も三木宅に移転した。三木宅は古い建物であったが、戦後、皇太子殿下の英語の先生であった。バイニング女史が住んでおられた家であった。
 
三木宅は十一年四月に取り壊しとなり、ソアレックス㈱の事務所は杉並区高井戸西一丁目の自宅に移転した。SOHO業者として最初から一名で仕事をしており、ソフト開発と云うものは後継者を育てることはきわめてむずかしい。
   
高齢となるにつれて廃業せざるを得なくなったが、
健康で還暦より七十三歳まで仕事があったことは恵まれていたかもしれない。


2008年11月29日 (土)

Qf 古希以降の仕事 110 建設事業計画ソフト開発と計算委託 

   昭和六十三年四月に国際観光専門学校東京校国際ホテル学科のコンピユータ授業に必要なホテルフロント会計システムを開発、納入し、毎週水曜日に午前九時より午後四時までコンピユータ実習授業を担当した。
  これは学校とソアレックス株式会社で講師派遣契約を締結し、ソフト開発を行った私が講師として派遣された。当初の実習はホテルフロント会計が主であったが、次年度からは学校側に提案し、宴会管理や食材管理などを実習に追加して教材の充実を図った。
  平成八年四月からは航空輸送学科の[航空貨物]という授業を担当、プログラムを開発して、阪急およびフライング・タイガー航空会社に在職中研究していた航空輸送分野の業務処理をパソコンにより紹介した。
 
平成九年三月、古希を迎えた。学校側のパソコンにおける授業方針の変更があり、講師として九年間継続した時点で講師契約の終了となった。昭和十六年四月に航空機乗員養成所に入所したが、六十九歳になって航空輸送学科の非常勤講師となったことは、きわめて意義があったものと思う。
 ホテルコンピユータソフト開発・販売をビジネスとして、ソアレックス会社を設立しており、一週間に一日だけは講師派遣契約により学校へ出勤しているが、その他の日は会社に出勤していた。ホテルに機械を販売し、ソフトを開発、納入すると約五年間はアフターサービスを必要とし、高齢化して健康を害して保守サービスができないと顧客に迷惑がかかるため、六十五歳以降はホテルヘのセールスを行わなかった。
 専門学校のOA授業と共同出資会社から依頼されホテル建設事業計画のソフト開発と計
算業務を行つていた。建設事業計画には二種類があり、ホテル会社が自社で土地、建物を購入し、ホテルを経営する場合と、リース会社がと土地と建物とを購入し、これをホテルに、リース物件として提供する場合があり、今回は、リースとしての建設事業計画をBASIC 言語で開発した。これをDCF建設事業計画と名付けた。

DCF建設事業計画

昭和58年に開発したホテル建設事業計画は別名が[ホテル経営計画支援ソフト」であり、BASIC言語で開発した。

ホテル経営計画支援

  上記2種類のプログラムの発注先は、エクスブレイン・インダストリー社で、昭和54年4月に、内装工事設計管理会社の経理ソフトを開発、62年2月に同社と共同出資でソアレックス株式会社を設立した。
  専門学校の講師の仕事も終わり、ホテルへのソフトメンテナンスの仕事も終わった。同社より依頼された業務は、DCF建設事業計画による計算受託業務であった。これが、古希以降の仕事となった。

2008年11月27日 (木)

Qe 専門学校非常勤講師 109 古希で契約解除

   平成六年に鷹司校長が退職し、八年十二月末で森本校長が退職され、高野事務局長が校長を兼任するようになった。九年二月、授業の時間割の改定が発表された。従来、月曜日から土曜日までの授業は新学期より土曜日を休日とし、また一日四学校時間授業を三時間に短縮すると発表された。
   ホテル学科の講師は仕事の都合で土曜日の授業が多かったが土曜日の授業が廃止されたので、ホテル学科の講師は二名退職した。第二外語を廃止、英語の検定試験も廃止、英語の日本人講師の削減が発表され、観光学科のAXESS担当の松本講師も退職することとなった。学校側よりこれらの状況を説明され、私にも新年度より講師の契約を行わないことが通知された。
  学校としては業務用のプログラムを必要としないコンピユータ授業を採用することになりWINDOWS95の使用方法を重点とした授業となった。 この傾向は以前より察知していたがソフト開発を重点とした私には講師としての方向転換は困難であった。
    ホテル学科及び航空輸送学科の卒業生の就職率は良好で、これは他の講師や学校側の活動によるものであったが、高校を卒業して専門学校へ入学する学生数が急激に減少したため学校の経営を圧迫する原因となった。
  国際観光専門学校の卒業式は毎年有楽町のマリオンで挙行されており、今回は九年三月十三日に挙行された。私はこれで九回卒業式に出席したことになる。
 卒業記念パーティはパレスホテルで行われ、そのとき色々と鈴木博顧問とも話をしたが学校に最初にコンピユータを導入するときに立会われ、またアリマックスホテルからのオープンの招待で偶然にも札幌で鈴木氏に会うことができた。このパーティの四日後、私は古希を迎えた。還暦から古希までの期間が専門学校非常勤講師であったわけである。
  六十三年四月より国際観光専門学校の国際ホテル学科の講師となり、八年四月より航空輸送学科が追加された。専門学校の講師を満九年担当した。
  十六年四月に航空局航空機乗員養成所に入所、航空機整備士としての訓練をうけたのであるが、平成八年四月より航空輸送学科のゴンピユータ授業を担当することになった。五十六年間、航空と関連する業界で働いたことになる。講師という職業がソアレックス株式会社の派遣業務となっており、講師料はすべて会社の収入として計上された。
   学校の仕事が終わると会社の本来の業務に復帰することとなったが、私が開発したプログラムで専門学校の学生にパソコンの利用方法を教えたことは有益であった。
 

Qe 専門学校非常勤講師 108 ホテルと航空貨物のプログラムメニュー 

   平成8年10月の後期よりWINDOWS95を使用しての授業となったため、ホテル学科と航空輸送学科のコンピユータ授業に使用するプログラムは一つの3・,5吋のFDに統合し、コンピユータを使用する学生の台数だけFDを準備し、授業ごとに貸出し、これを回収した。盗難防止のため、コンピユータのハードデスクには格納しなかった。
  コンピユータ画面を開くと次にような分類で必要とするプログラムを呼び出すことができる。また航空輸送学科の学生もホテル関係の授業の内容をみることができるようになった。
                                       記
国際ホテル学科
1 コンピユータ実習補助教材
学生番号登録、業界用語登録印刷、
業界用語演習、
客室種別室数、室料等計算など
2 フロント会計
A チェックイン
B チェックアウト
(伝票入力/会計書発行)
C 室料、奉仕料、税金、電話課金 
D 客室変更
F 宿泊者名検索
G 売上/現金および売掛照合表 
H 伝票入力明細/集計/
     税金算出根拠
I  会計書チェクアウトバランス管理表 
J 入力伝票訂正明細書
K 宿掛残高一覧表
N 本日更新     P 日付変更
3 部門売上/現金売掛集計
M 売上、売掛入力 
R 売上売掛報告 
U 修理部屋指定と解除 
4 レストランメニュー材料展開
単位コード表登録、仕入先名登録、
メニュー分類コード名登録など
メニューコート名、使用材料分類コード名、
使用材料コード名登録 など
5 宴会管理
登録業務
Q1 六輝、祝祭日登録 
Q2 科目・単価登録
Q3 パック料金登録 
Q4 担当者、地区登録
予約状況
AQ 予約照会
CQ 宴会別予約状況 
DQ 月間予約状況 
日常業務 婚礼と一般宴会とに区分
婚礼宴会
EA 手配書入力 FA 印刷 
GA 見積書作成 HA明細書作成

一般宴会
EB 手配書入力 FB 印刷 
GB 見積書作成 HB明細書作成
一括処理 宴会別売上売掛集計、
利用形態別予約経路別科目売上集計
顧客管理  婚礼関係顧客、一般宴会顧客

航空輸送学科
6 航空輸送
A 学籍番号登録、
B  業界用語印刷、業界用語演習

C  為替レート計算、単位換算早見表
D  貨物サイズと個数、
E  運賃計算、
F  航空機パレット積付計算
G  税部分申告計算
H  FOB・CIF計算、保険料、関税、物品税、
I    航空と海上貨物輸送判定、価格分岐点
J   航空と海上との貨物輸送総流通経費
  日本・欧州間、台湾・北米間
   日本語と英語

以上   

2008年11月24日 (月)

Qe 専門学校非常勤講師 107 Windows95とパソコン授業の転換

現在のパソコンが爆発的に売れ出したのはWindows95からである。これは1995年に発表、これが実際に利用されたのは翌年の1996年で平成八年であった。
 
平成八年八月上旬、国際観光専門学校で使用されているノートパソコンの使用は前期までとし、後期よりWINDOWS95が組込まれた東芝カラーパソコンが約五十台、電子プリンターが三台設置されるこという通知を受けた。従来、使用言語はIBM機種と互換性があった東芝BASICを使用していたが、新機種より東芝BASICは破棄され、市販のBASIC98により国際ホテル学科と航空輸送学科のプログラムを組み直すことを余儀なくされた。

  ノートパソコンは三年六ヶ月の使用で新機種に切り替わることになった。リース期間は通常五年であるが、モノクロの画面ではコンピユータへの魅力が失せたので新機種への移行を決断されたようであった。技術革新のテンポは非常に早い。

  観光学科のコンピユータ授業は別の教室にサーバー機を三台、端末機を二十台設置されていたが、今回から東芝パソコン五十台のうちの二十台には観光学科のAXESSが組み込まれるようになった。AXESSでは二十台以上設置する場合は助手が一名となり、また機械台数を増加させると使用料が高くなるため、機械を二十台に限定された。

  新規に機械を設置するとプログラムは機械に付属して料金が設定されており、このため学校側に国際ホテル学科プログラムの使用料の交渉を行ったが、使用料は財政上の理由から支払われないことになった。すでに八年四月よりの航空輸送学科のコンピユータ実習ではプログラム料は支払われていない。

講師がコンピユータ室を使用する場合、授業に必要なコンピユータ・プログラムは講師自身が無償で提供することとなり、実際問題として他の講師がホテル学科のフロント会計や宴会管理での具体的な業務でのコンピユータ実習は困難となってくる。
 専門学校のOA授業といえば、ワープロ授業が主流であるので、ホテルで実際に使用されているフロント会計や宴会管理でコンピユータ実習を行っているところは少ないと思われる。
 コンピユータに組み込まれているソフトを使用するとプログラム費用が安く、講師希望者も多いため、Windows95を採用することによってよって、学校の方針が変わってきた。昭和六十三年四月より非常勤講師となり九年間、契約が更新されたが、平成九年三月で講師契約は終了となった。

2008年11月23日 (日)

Qe 専門学校非常勤講師 106 航空輸送学科コンピユータ実習 

  平成八年四月より一年間、航空輸送学科二年生のエアカーゴ・コンピユータを担当、毎週九十分授業で年間約二十五週、四単位の授業を行った。一年生は後期より授業を開始した。単位は四単位であった。学校教務部へ提出した八年度の講義内容は次の通りである。

「前期」 コンピユータ基本操作で航空関係業界用語を印刷。FOB,CIF価格計算を学習、語学と係数処理の必要性の認識をはかり、機械を使用した学生に興味がある実習。

NO.講義内容

 一 機械の基本操作、教材ワープロの印刷方法

 二 教材ワープロの印刷方法

 三 パソコンでの電卓計算

 四 パレットに特定サイズのカートンの積付計算

 五 パレットに特定サイズのカートンの積付計算

 六 カートンの容積、重量、価格での日米間の物流単位換算

 七 カートンの容積、重量、価格での日米間の物流単位換算

   八  FOB,CFR,CIF価格、保険料計算

九 航空輸送総流通経費分析での関税、物品税の基礎価格 

一○ 航空輸送総流通経費分析での関税、物品税の基礎価格
一一 輸入関税部分申告 FOB-CIF計算

一二          CIF-FOB計算

一三 FOB-CIF価格と逆算計算      

一四 試験問題説明、復習

「後期」 CIF価格に関税、物品税、輸送中の資本コストを加味した貨物総流通経費を海上と航空輸送とに分けて比較分析、航空貨物企画業務のパソコン処理例を紹介。

NO.講義内容

一五 海上と航空との貨物総流通経費比較、ドイツ・北米間

一六 英語版による処理

一七 海上と航空との貨物総流通経費比較、日本・ドイツ間

一八 英語版による処理

一九 海上と航空との貨物総流通経費比較、台湾・北米間

二○ 海上と航空との輸送方法比較

二一 代理店におけるコンピユータ貨物企画業務

二二 航空混載貨物運賃設定理論

二三 航空機パレット積付早見表開発         

二四 代理店収支予算編成
二五 試験問題説明、復習

      以上

Qe 専門学校非常勤講師 105 航空輸送学科講師拝命

   国際ホテル学科のコンピユ-タ実習を六十三年四月より担当し、平成八年三月で非常勤講師を満八年委嘱された。八年二月中旬、教務部長より航空輸送学科の通関士の国家試験において貿易関係のFOBやCIF価格の計算問題が出題され、試験に失敗した学生が多かったということを知らされた。
  航空貨物業務についての経験ではコンピユータによる航空と海上との貨物輸送コスト計算を行い、また総合商社のFOBやCIF価格計算の経験があるため、これらの価格計算を授業に組み入れたコンピユータ実習は可能と判断した。
 七年三月に航空輸送学科で航空運送状発行をコンピユータで行う授業を担当されていた講師が退職され、七年度の授業は廃止されていたがこれを復活したいという要望もあった。
  学校より授業内容の文書による報告を求められ、教科書の原本として二百四十頁の資料を提出した。このなかには講師としての航空貨物業務の経験もレポートした。
 航空輸送学科のエアカーゴ・コンピユータという授業は新たなチャレンジであった。この授業は航空貨物についてのコンピユータの講義である。パソコン五十台を設置している教室での授業であるため、機械を操作せずに講義だけを行うことは困難であった。学校に提出した資料は二十年前の私が作成した航空貨物でのコンピユータ処理例でありこの中で学生がFOB、CIF計算が理解できるものを選んでプログラムを作成、これをコンピユータ実習授業に使用した。
   国際ホテル学科の講師料は最初は百四十万円程度あったが、授業時間の再編成が行われ、授業時間が少なくなり、年間七十万円であった。航空輸送学科のコンピユータ授業を担当することにより、講師料は年間合計百四十万円となる。
  専門学校の講師料は授業時間に対して支払われるが、授業用に開発するプログラムには約七百時間の労働投下が必要であるが学校としては機械の使用は前提条件ではないのでプログラム開発は無償であった。しかし授業およびソフト開発に約千時間を投入した。
  四十六年七月にソニービジネスマシン㈱の特約店となり、マイクロ・コンピユータによる航空と海上との貨物輸送の総流通経費分析を行った。それから三十年を経過した平成八年(一九九七年)七月に航空輸送学科の[エアカーゴ・コンピユータ]授業の教材としてパソコンにより再開発し、授業を行った。
  航空貨物業務は五十年(一九七五年)に終了したが研究資料は大切に保存していた。三十年前の資料を再び持出して授業を行うことは大変、勇気が要ることである。一般の授業で三十年前の資料はきわめて古いと思われるが、その内容はマイクロ・コンピユータで開発したものを、授業においては最新式のパソコンでこれを復元するわけである。
 私は現在の航空貨物業務がどのように変化していることはあまり知らないが、基本的なものは変化していない。航空輸送学科で使用されている教科書と市販の貿易関係のFOB、CIF計算例をみて、海上、航空関係の運賃などをチェックし、航空貨物輸送でのパソコンの使用方法を紹介することにした。
   航空機乗員養成所に四年半在学しており、六十九歳より航空輸送の授業を担当するのは幸運と考え、これにチャレンジすることとなった。

Qe 専門学校非常勤講師 104 海外旅行会社コンピユータ嘱託

    平成六年夏に日本航空㈱を定年退職された横尾雄三氏が社団法人国際交流サービス協会で専務理事安藤昌彦氏のもとで勤務する旨の挨拶状を受取った。横尾氏は二十九年四月に九州大学を卒業され、安藤氏の後輩で日本航空㈱福岡支店海外旅客課に勤務され、東京に転勤羽田管理部長や空港モーターサービス㈱の専務取締役を歴任された。
  二十七年十二月に阪急福岡営業所に私が就職するときに日本航空㈱福岡支店の田尻氏に社員の紹介を依頼したのは安藤昌彦氏であり、阪急での就職での面接に立ち会ったのもこの安藤氏であった。安藤氏は四十年十二月に阪急を退職され、その後、ホテルの総支配人をされ、六十年に国際交流サービス協会理事として就職された。三年五月に安藤氏が会社に来られ、パソコンの機種選定で相談をうけたことがあったが、その後、東芝パソコンを購入された。
 今回、日本航空から退職された横尾氏の推薦があり、六年十一月よりとコンピユータに関するコンサルタント契約を締結した。期間は八年三月までの十七ヶ月であった。
 国際交流協会は霞が関の外務省庁舎の別館にあり、地下鉄霞が関駅から協会に行く場合もあった。二十七年十一月よりの安藤氏との出会いであり、四十三年前の関係が今回コンサルタント契約につながった。
 海外旅行のコンピユ-タの問題が発生したとき、コンサルタントを行う仕事であったが特定の業務はなかった。海外旅行とホテルの経験があるコンピユータ業者であるため、問題が発生した場合は理解しやすいと考えられ、コンサルタントに迎えられた。
   旅行会社においてはプログラムを開発して業務処理を行うものは極めて少ない。コンピユ-タができるというのは主に表計算であった。私はホテル関係の定形業務処理分野のプログラムの作成を行っていたので表計算の勉強はしていなかったが、この機会に表計算を勉強することにした。
   国際観光専門学校に設置されているノートパソコンにはワープロのソフトとして一太郎がセットアップされているが、台数が多いので授業に使用しない表計算ソフトは、組み込まれていなかった。一般の専門学校における表計算の授業はきわめて難しく、多くの講師が敬遠していたものと思われる。
   阪急交通社で海外旅行業務の実務を担当したのが、入社してからの八年間であった。またコンピユ-タの導入計画を行い総務部事務機械課長の仕事をしていたので、旅行関係のコンピユ-タのことは割合知っていた。これらの経験からコンピユータのコンサルタントの仕事を引受けたわけである。
  阪急福岡営業所に勤務したときの私を含めて四人の営業所であったが、阪急を退職するとき私は貨物部企画課長で上司の貨物部長が吉田茂夫氏で福岡営業所の所長であり、後の阪急交通社の社長になられた。次席が安藤氏で國際交流サービス協会の専務理事であった。良い先輩に恵まれていたようである。

Qe 専門学校非常勤講師 103 教科書の作成

  渋谷アリマックスホテルのフロント会計システムの社員講習には、國際観光専門学校國際ホテル学科のコンピユータ実習の教科書を使用した。このホテルのフロント会計は、私が考えたシステムで提案型ソフトであり、専門学校での授業内容と全く同じものであった。
 この教科書にはホテル業界用語も紹介されており、社員にも参考となった資料である。五年四月よりホテル学科のコンピユータ実習に必要な教科書を作成することにした。教科書の原稿は私がワープロで作成、印刷および製本は印刷会社へ学校事務局経由で発注した。頁数は二百頁で部数は二百冊で印刷費用は二十九万五千円であった。二年間で配布する教科書数は百三十冊で単価を二千二百五十で発売、二十九万三千円が回収さる。学校に三十冊、会社に四十冊が予備在庫となった。
  この予備在庫の四冊程度をホテル側へ提供したが、開発したソフトの権威づけには、きわめて効果的であった。教科書の作成は講師が費用を負担するため、いままで印刷することができなかった。教科書の内容は次の通りである。
  表紙の冒頭に「この教科書はOADG(PC OPEN AUCHTECUTURE DEVELOPER`S GROUP)一九九二年十月号の(ソアレックス株式会社)開発として掲載されたソフトを使用して資料の作成を行いまたホテル学科のコンピユータ実習教材として再編集をいたしました。」ということを記入した。資料編として次のソフトを教科書に織り込んだ。
①観光業界用語実習支援 ②フロント会計 ③部門売上現金売掛集計 ④客室予約管理 ⑤レストランメニュー材料展開  ⑥宴会管理,⑦ホテルリネン管理 ⑧ホテル経営計画支援
  一つの学科を丁寧に教え、全員に理解させる方法は理解力がある学生には退屈な授業である。このため最低限の授業を確保しながら、意欲がある学生に対しては、学生の興味に従って、個別に指導ができるように教科書においては、その仕事の説明とコンピユータ処理を行ったときのアウトプットを掲載した。会社の資産であるソフトウエアを講師である私は所有しているため、これを学校の授業に使用した。
  観光学科が旅行見積計画書というプログラム、航空輸送学科が航空貨物運送状の発行というプログラムに対して以上のようなソフトが準備されていた。他の学科と比較して豊富な教材を授業に投入した。
  六十三年四月よりホテル学科のコンピユータ実習授業を行っていたが、当初はフロント会計、部門売上現金売掛集計および客室予約管理であった。その後、学校に提案して観光業界用語実習支援と宴会管理ソフトを授業に取り込むことにした。
 年間約三十週、一回、九十分授業において多くの教材を投入し、授業のスピードアップを図ることが必要であるという学校の方針に沿ったカルキュラムの編成を行った。大学、専門学校へ入学する十八才未満の学生数が年々減少しており、学生の質が次第に低下してきた。学生が興味を持つ授業でないと講師は非常に苦痛な授業を余儀なくされるわけである。パソコンによる興味ある教材の開発を心掛けた。 

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 102 小規模ホテルへの納入

    平成三年に日航関連会社㈱インターナシヨナルフーヅの専務取締役本間昭治氏より、アリマックスホテル渋谷の設立準備室長となった関氏を紹介されたことがあった。私が福岡から東京へ転勤、貨物の英文パンフレドの作成で有楽町のパンアメリカン航空会社を訪問した時、本間氏に会ったのが昭和三十六年であった。その後日本航空㈱へ転職された。EX社への紹介もこの本間氏であった。本社管理部の航空貨物部門主任教官、貨物開発課長であったので、航空貨物の研究で知り合いとなった。
  アリマックスホテルは福岡市天神町にアリマックスホテル福岡を開設し、また札幌市にアリマックスホテル札幌を建設中であった。福岡のアリマックス・ホテルにコンピユータを納入した業者が札幌にも納入する予定で関係者のミーチングが行われた。このとき私も呼ばれた。
 札幌の総支配人として就職された人は東急ホテルに勤務したことがあり、シチィホテルのフロント会計のポイントを理解されていた。福岡に納品したシステムは日本式旅館型の会計方式であった。札幌のホテルがオープンするまで数か月の期間しかないので、私は時
間的な制約があるため、札幌のホテルのシステムを開発する考えはなかった。
 ホテル側はホテルのコンピユータシステムも建設会社に依頼しているケースが多い。二十室程度のホテルでレストランやバーにPOSシステムを導入すると、コンピュータシステムが割高となる。小規模ホテルでは使用頻度が少ない、そして新教育が必要なシステムを排除することが必要と考えた。ホテル側は経済性を考えてパソコンを使用しての導入を検討された。
  四年八月よりアリマックスホテル渋谷のコンピユータシステムの開発を担当するようになった。フロント会計、顧客管理およびホテル部門別会計経理システムであった。電子交換機の接続では富士通の交換機で特約店としては、成田レストハウスで共同作業を行った大崎コンピユータ㈱を推薦し、これが承認された。札幌でのIBM機種と富士通機種との経験を今回活かした。富士通の電子交換機との接続は今回が三回目であった。ソフト開発者が推薦するメーカーの機種でないと、接続に自信がないので、フロント会計システムの開発は引受けられない。
  五年十月にホテルはオープンした。新規にオープンする二、三十室のホテルではフロント会計での経験者は殆どいない。システムのマニュアルには国際観光専門学校国際ホテル学科のコンピユータ実習で私が開発した教科書を使用した。
 システムは順調に作動したので、保守のためホテルから呼び出されることは非常に稀であった。ホテルは自宅からバスで十五分の距離であり、歩いて四十分の距離にあった。沖縄、札幌と比較してきわめて近距離にあるホテルであった。平成九年三月まで機械とソフトの保守を行った。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 101 同期生会連絡誌編集協力

   戦時中四年半にわたり集団生活をした少年というのは、[同じ釜の飯を食った仲間]として、ある種の連帯感がある。還暦を過ぎて、新しい同期生会を結成することになった。これには連絡誌が必要となり、ワープロができるものに[白羽の矢]が立つ。

  昭和十六年四月に熊本、米子、印旛、新潟および仙台の五ヶ所の養成所に各々六十名、合計三百名が入所し、十九年四月に適性検査により操縦は米子、整備は新潟に集結し、そして二十年八月に終戦を迎えた。

  最初に入所した養成所ごとに同期生会が開催されており、米子の三期生会は最初の会合を三十年九月十八日に米子市皆生温泉鉄道康生寮で開催、この時、私は発起人の一人になっていた。

  米子は五十年前の養成所の建物は陸上自衛隊が使用しているため、大部分が保存され教官や職員で米子市在住の人が多いため、二十名程度の三期生会に教職員や米子航友会長馬詰太郎氏らが常時、五、六名出席されていた。

  このとき養成所時代の資料を配布されていた。在学中に知らなかった情報を戦後知る機会があった。米子で同期生会が開催されるときは自衛隊の許可を得て見学していた。

この自衛隊の中に資料室があり、養成所時代の制服や特攻隊で戦死した操縦生の遺書などが陳列されていた。自衛隊の正門の横には記念碑が建立され、その近くには原寸大の九五式練習機が展示されていた。他の養成所跡は記念碑のみで建物などは消滅していた。

  印旛から新潟に転属し、新潟でともに学んだことがある高野弘行氏が中心となり、平成元年二月、各地養成所の東京在住のものが招集され、航空機乗員養成所本科三期全国大会を開催することになり、私はこの幹事会に出席した。

  平成二年四月十四日、京都の堀川会館で第一回全国大会が開催された。判明していた二百四名の同期生の内、南は鹿児島、北は北海道から集まり総員六十四名が出席した。この大会の終了後の五月十九日に東京で幹事慰労会があり、この大会を今後も継続するためには連絡誌の発行が必要と考えられ、私が編集長に指名された。
  私は昭和から平成に移る時点で私の昭和時代と題する自分史を編集しており、養成所入所前から終戦の年までの作文があったため、編集を引受けすることとなった。

  この同期会の連絡誌の編集に約二百時間を投入した。忙しいとい理由で辞退しても受けざるを得ない。これは順番制と解釈すると一度これを行えば次は誰かに移管できると考えた。このような仕事はワープロを使えるかどうかでイエスという返事を行う。私は一号と二号とを担当した。

  連絡誌一号は平成二年に京都、二号は四年に東京、三号は五年に熊本、四号は六年に新潟、五号は七年に米子、六号は八年に仙台、七号は九年に鳥羽、八号は十年に鹿児島、九号は十一年に横浜、十号は十二年に別府を開催地として同期生会の開催状況を掲載した。十三年六月に第十一回全国大会は北海道で開催され、会員が高齢となったため、同期生全国大会は解散となった。自分史の編集というのは、同期生会の連絡誌の出版に必要な資料を保存しているため同期生会誌の編集には協力できる立場にあった。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 100 ホテル関係へセミナー開催

 平成二年四月十四日に航空機乗員養成所本科三期全国大会で第一回が京都で開催され、第二回は三年九月二十八日、東京の麹町会館で開催されこれに出席した。十六年四月に入所したので入所五十年記念としての集会であった。

この全国大会に出席した米子三期の鈴木忠士氏がソフト会社を紹介するということで十月二十四日に日帰りで大阪に出張した。大阪のソフト会社に紹介したソフトはホテル建設事業計画であった。ホテル建設事業計画はパソコンソフトとしてはユニークなものでIBMがホテル・レストランを対象とする研究会に講師として招かれた。

十一月二十二日(金曜日)にロイヤルパークホテル有明の間で第四回IBMフードサービス・システム研究会が開催された。私は外食店舗出店計画支援ソフトで約四十分講義した。約三十名が出席した。このホテルには平成元年四月、リネン管理プログラムを納入したことがあり、そのときのシステム課の西山係長もこのセミナーに参加されていた。

  十一月二十九日(金曜日)に京王プラザホテル札幌の扇の間で、第九回IBMホテルシステム・シンボジュームが開催された。私は建設事業計画支援ソフトで約三十分講義、約三十名が出席した。

会社の共同出資者である㈱エクス.ブレーインインダストリーは浦島観光ホテルの内装工事を引受けていたため、セミナーを開催した。十月十四日に晴海の東京浦島ホテルで浦島社員を対象としたホテルシステムの講習会があり、本社および勝浦、串本ホテルの担当者が出席した。会社で開発したトータル・ホテル・コンピユータ・システムの説明を行った。

2008年11月20日 (木)

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 099 札幌国際ゲストハウスへ

   平成二年四月、日本IBM㈱本社の地域プロジェクト開発部次長(北海道担当)田中宏武氏より連絡をうけ、札幌市国際部が設立する札幌天神山国際ハウスのフロント会計システムの開発を行うこととなった。
  客室規模としては十三室であるが海外から学者、技術者が札幌を訪問したときの長期滞在に向く家族単位の宿泊施設で天神山という丘の上にあり、日本庭園や教育設備があり、他のホテルと異なるのは札幌市の条例により、ホテルの消費税、特別地方消費税が免除され、売上はすべて札幌市の公金として計上することになっていた。
  二年四月二十三日より一泊二日の予定で空路、札幌に出張した。札幌市役所内会議室で国際部企画課職員、国際ハウス職員、IBMの田中次長、IBMの特約店㈱ホシ・伊藤の社員が出席した。ホテルのフロントシステムにはあまり経験がない人との会議であった。
  この会議で一応、システム開発の方法が決定し、見積書をIBMの特約店に提出することになるが、会議出席者のホテル・システムに対する理解度により出張回数が決定するがこの会議に出席していないのは肝心の電話機器の納入業者であった。
  このプロジェクトをIBMと富士通とが入札でIBM機種が納入された場合、コンピユータと電子交換機との接続の話合ではIBMと富士通との話合は無理と考えた。コンピユータと電子交換機との接続では富士通機種が経験的に最適と感じていた。今後の出張には富士通の電話機納入業者との折衝が重要となった。
  最初からシステムの完成まで何回、出張が必要か?羽田・札幌間の往復航空運賃は四万三千円、自宅から羽田までの往復交通費、千歳空港から札幌天神山までの往復交通費、旅行傷害保険料、夏場のオンシーズンにおけるホテル代などの不確定要素を考慮してプログラム開発料金の見積を七回程度の出張で百九十六万円とした。
  一回の出張では交通費で約六万円、三泊四日を平均として一日のホテル代を含めた出張手当を一万円とすると、一回の出張では約十万円がかかる。このため出張経費は約七十万円となり、差引百二十六万円がプログラム料に相当するわけである。二回目は六月十八日より三泊四日、三回目は六月二十八日より四泊五日、四回目は七月十九日より五泊六日、五回目は八月十三日より四泊五日、六回目は九月二十日より三泊四日、七回目は十一月十五日より二泊三日の出張。合計宿泊日数は二十二日、出張日数は延べ二十九日となった。
   電子交換機の販売は電話機器の販売業者が行っており、通信手順という問題もコンピユータの接続と関係がなければ理解されておらず、大変な仕事であった。IBMパソコンと富士通の電子交換機との接続経験という点で意味がある出張であった。この七回の出張には専門学校の授業があったので水曜日をさけており、木曜日早朝羽田発、土曜、日曜日も働き、火曜日の午後五時にはかならず帰京、会社に出勤する必要があった。札幌へ七回出張したが札幌観光を行うという余裕はなかった。沖縄や北海道への出張では何回、出張すべきか?という判断を間違えると大変な赤字となる。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 098 日本IBMカタログ登録

 ソフトハウスがプログラム開発を目的としたパソコンの購入には、四割五歩の割引が適用されていたが、割引機械購入申請には開発するソフトウエアの報告が必要であった。昭和六十二年以降、日本アイ・ビー・エム㈱に登録したソフトウエアは次の通りである。
                                                記
[フロント・システム]
 チェックインからチェックアウトまでの宿泊に伴う会計処理を行う。会計書の発行、売上・現金売掛照合表、伝票入力明細、消費税、特消税算出根拠、宿泊統計、会計書管理表、伝票入力訂正明細、宿掛残高表、客室売上日報、客層・旅行業者別売上日報及び月報など、夜間バッチ処理が完備。室料は会社へ請求、食事その他は宿泊者の現金払等の支払方法条件による分割会計書の発行ができる。部門売上現金売掛集計、予約管理が組込まれている。

[ホテル宴会管理]
 見積書、精算書の作成を行う。毎日の手仕舞としては、バッジ処理により、宴会別売上/現金売掛集計、利用形態別、予約経路別、売上科目別日計、及び月間累計を印刷する。
  宴会データは、ハードディスクに利用年月日順に格納され、有効な販売管理ができる。ウエディングプラン、忘・新年会プラン等の各種のパック料金の登録ができる。

[ホテル会計経理]
  会計経理伝票で総勘定科目、補助科目、部門、取引先、摘要、決済期日、消込照合番号、
金額および貸借コードを入力項目として、日計表の作成を行い、月末に貸借対照表、損益計算書、部門別売上、原価、人件費および経費の補助科目別集計を行う。 総勘定元帳、補助元帳、銀行口座別残高、借入、売掛、買掛金等、取引先別残高の把握を行う。

[ホテル経営計画支援]
  ホテルの建設、改装、中期長期経営計画の立案において、建設設備、資金調達、借入金返済、償却資産再投資、売上計画、売上原価、人件費、経費、部門別損益、貸借対照表、損益計算書、資金繰など最長30年まで試算できる。客室稼働、物価上昇、金利率を変化させ、最適解の経営計画を試算することができる。

[レストランメニュー材料展開]
  ホテルの宴会・レストラントを対象に、メニューレシピー作成、食品材料構成とポーシヨン別の材料原価計算を行う。メニュー売上数量(予想、見積)から理論的なレシピー上の消費数量、仕入ベースによる数量と金額を把握する。仕入とレシピー上の単位が異なるため、両者の換算率を設定することによりスピーディな原価計算を行うことができる。

[ホテルリネン管理]
 客室リネン、洗濯費、貯蔵品、入出庫、部門振替、棚卸、支払等の伝票により本日仕入入出庫、買掛金発生の日計表を作成する。月末処理として、買掛金残高表、仕入先別仕入台帳、品目別仕入台帳、部門別貯蔵品在庫残高、入庫台帳、出庫台帳、在庫振替台帳、棚卸台帳などの帳票を作成する。
  昭和44年5月より、坂本システム研究所を設立、62年2月にソアレックス株式会社と名称を変更したが、従業員は私だけのSOHOである。
上記のカタログは、平成2年にパソコン各メーカー間のハードの規格統一が討議されるようになり、日本IBMに登録した上記のソフトは、各メーカーにレリーズされた。この組織は、[OADGE]と呼ばれていた。
 

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 097 宴会システムから業界用語集

  国際観光専門学校の学生募集の案内を参照すると、専門学校の教育方針として、国際性、語学教育、チャレンジ精神、実務への密着した教育が強調されている。六十三年四月よりのコンピユ-タ授業に使用するプログラムは学校の教育方針に合致したものである必要があった。
  学校においては観光学科、国際ホテル学科および航空輸送学科があり、私はこれらの三学科を実務的に経験をしている。また学校が英文科であり、米軍には日本人従業員として六年半、勤務したことがあり、米国の貨物専門航空会社には約四年間、勤務した経験があった。このため航空関係で使用される英語の業界用語については関心をもっていた。
  旅行代理店、航空貨物代理店、航空会社、ホテルおよびコンピユータ業界において従業員が日常使用している業界用語を約三百語程度に限定して、これを列挙することが可能である。これは一般の語学の講師にはない実務ベースの語学の経験であった。
  専門学校の実務教育においては、英語で表示されている用語を日本語で翻訳が出来れば一応及第である。講師としての一年目に観光、ホテル学科の業界用語の紹介を行った。講師としての二年目に成田のホテルで宴会管理のプログラムを開発した。このとき宴会請求書の発行に必要な請求アイテムの名称を日本語と英語との二か国語にしていた。このプログラムは業界用語編集に応用できると判断し、二年四月より業界用語編集プログラムを授業に導入した。
 八年四月より航空輸送学科のコンピユータ授業を担当したが観光、ホテル学科の業界用語二百二十五語に航空輸送学科用語として四十七語を追加して、 合計二百七十二語の用語集とした。
                           記
一 登録関係 二十五語  二 予約関係 三十語 
三 会計関係 三十七語   四 部門売上関係 三十語
五 客室料飲 三十八語  六 航空輸送 四十七語
七 コンピユータ  二十語  八 その他   四十五語
合計     二百七十二語

  業界用語集を印刷すると一頁に五十語程度、全体で六頁となる。講師としての私が入力した業界用語を学生がコンピユ-タで印刷、その際、学生の在籍番号と学生名も印刷させた。これが授業の第一回目である。
 ホテル学科での業界用語の実習の経験に基づいて航空輸送学科のコンピユータ授業に応用した。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 096 成田空港内ホテル宴会管理

  成田プリンスホテルは東京航空食品よりホテル施設を借用していたが、契約期間が終了し、施設は東京航空食品に返還され、宴会施設を約三十億円かけて建設、成田ウインズホテルという名称で平成元年十一月十五日より営業することとなった。
   成田エアポートレストハウスの営業会計支配人が同ホテルの営業経理総支配人となったため、ホテル宴会管理ソフト開発を私に依頼された。
   レストハウスにはキャノンの機械が使用されたが、今回から日本IBMの5550機種を三台設置し、同一データをこれらの三台の機械が共同で使用するロカル・エリア・ネットワーク・システムとなった。機械及びソフトウエアの請求金額は一千一百万三十万円であった。プログラムはきわめて面倒であったが十一月十五日に間に合うように納品した。
   専門学校の卒業生が次第にホテルでのフロント部門よりはレストラン・宴会部門に入社直後、配置が行われている傾向があったため早速、宴会管理システムを専門学校の授業用に再開発した。宴会場名、使用メニュの名称や価格を改定して汎用性をもたせた。宴会の手配書、見積書および請求書に必要な項目は日本語と英語とを対応させていたため、このプログラムから観光、ホテル、航空輸送学科での業界用語編集システムを開発した。
  平成元年十月よりこの宴会管理と業界用語編集システムを試験的に実習に追加し、学生の興味があるかどうかをチェックした。期末試験においては宴会管理も出題した。予定していた教科を若干統合し、業界用語編集システムと宴会管理とを追加した。
 同じ授業時間で多くの業務を体験させるために、授業の速度を早めるための教材の開発をも行った。これは同じ講師料で数多くの教材を消化させることは、講師としては労働の投下となるが、派遣会社としては教材としてのソフトの売上の増加となる。
   平成二年三月に学校側に業界用語と宴会管理システムの採用を申請、学校との話合で消費税を入れた二百六万円が決済された。プログラムを開発しているものが学校で授業を担当しており、実際にホテルに納入して有効なソフトであるかどうかを把握できるため早速授業に採用して学生の反応をチェックした。
  宴会管理で学校の授業用にシステムを作るには数多くの見本を作っていなければ宴会顧客管理での検索ができない。このため入力を専門とするアルバイトが必要でこれにはコンピユータの操作方法や、試験データを作成できる訓練が必要である。
 私はホテル学科二年でコンピユータ実習に意欲がある女子学生二名に声をかけた。出勤する時間は学校の授業がないとき自由である。学生には時間給千円のアルバイト料金を支払った。ホテルの宿泊者名、婚礼の相手方などは学生が知る俳優やタレント名のほうが、実習においては学生に共鳴される。このため学生に入力させたほうが効果的であった。
  授業に使用する宴会管理プログラムの代金は学校から会社へ支払われるが、その資金は学生が支払った授業料の一部であり、アルバイト料金として学生に還元する考をした。
 私が開発していたプログラムはホテルフロント会計、レストランメニュ-材料展開、宴会管理、ホテル建設事業計画などでアルバイトに機械を操作させ、教科書を作成するためのアウトプットを作成させた。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 095 大幅なプログラム変更となる消費税導入

  平成元年において特筆されるのは消費税の導入で色々と反対があるため、これが先送りされることを想定していたためホテル関係の消費税関係の詳細は事前に把握できなかった。
 四月一日に消費税が導入されることになり、その詳細が判明したのは、二月十五日ごろ成田地区で税務事務所がホテルの担当者を召集しての質疑応答であり出席した担当者は係員に矛盾点を質問するわけである。
 消費税の徴収は運用面では地区により解釈が異なるが成田地区での解釈をコンピユータのプログラムに反映させた。ホテルにおける消費税の導入は従来の一名につき一泊五千円以上が課税、税金は課税対象から二千五百円を控除額として、一割の税金であった。消費税の導入により、すべて三パーセントの消費税、一泊の宿泊代と食事代との合計が一万五千円以上の場合は、特別地方消費税がかかる仕組みとなった。同じ価格のものをホテルで食事をしたとき、現金で払えば特別地方税がかからないが、サインすると当日の宿泊費と食事代の合計が一万五千円以上となると課税対象となり、矛盾があり、これを指摘しない地区ではプログラムが大変面倒になる。成田エアポート・レストハウスのプログラム変更の料金は一四五万八千円であった。
  沖縄では那覇地区は成田地区と同じプログラムであるが、石垣島は地方税務事務所の解釈どうり行うため、プログラムの修正が困難であった。消費税の導入は、すでにフロント会計システムを納入したホテルへのプログラムの変更を伴う。
  ホテルサン沖縄では使用していた機種をAS300EXへ切り替え、プログラムの再開発を行った。プログラム料は百万円であった。
  消費税の導入に伴い会計書に県税務事務所の承認申請が不要となった。石垣グランドホテルは他に売却される話があり、消費税導入によるプログラム変更を保留された。
 国際観光専門学校国際ホテル学科の授業は、四月十日前後より開始され、これに間に合うように消費税組込みのプログラムの作成を行い、十一月に変更の約八十万円の見積書を提出、これが承認された。
 専門学校の授業では税金などの計算はアップツウデートの情報が必要であり、学校側の決済を得てからの開発ではタイミングを逸する場合があるため学校を信用しての見切り発車であった。消費税の導入はコンピユータ業者においては、プログラムの需要が発生したため、今までにない忙しさであった。
  この四月一日、次女の佳子が田中哲文君と結婚、東京の如水会館で式を挙行した。これに出席した。新婚旅行で欧州へ行くことになり、成田で一泊宿泊することとなった。この日、消費税が導入され、四月一日から宿泊者適用されることとなった。このため、成田エアポート・レストハウスに田中君と次女佳子および両親が宿泊するように手配した。次女が東京如水会館を選んだのは、六十年五月二十五日に長女の由起子が結婚、東京如水会館で挙式したためであった。一流宴会場でも婚礼宴会の請求書が手書きであることを顧客としての目で判断した。私は婚礼宴会披露宴というものに注目した。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 094 ホテルリネン管理

  昭和六十三年十二月二十四日に沖縄県石垣島へ出張し、石垣ウランドホテルのフロント会計で客室の日本間で一室五名を定員としたのを十名まで拡大する深夜作業を行う。今回で石垣島への出張が終った。今まで沖縄へ旅行した回数はこれで十二回目であった。ホテルの近くから石垣島沖まで往復二時間程度の観光船がでており、観光ガイドが空に向かって懐中電灯で、南十字星を指しながら説明していたのは印象的であった。
  二十七日、新宿小田急の中華料理店「豪華」で、国際観光専門学校国際ホテル学科関係の講師の懇談会が開催された。石垣島に出張した帰りにハブ酒の二合ビンを十本購入し、この懇談会に贈呈した。ホテルの仕事では現職であることをPRしておく必要があった。
出席者は志賀氏、パレスホテルの吉村専務、元日航開発の鈴木専務ら八名程度でホテル経験者の仲間入りであった。
  これより半年前の六十三年四月末、東京第一ホテル京都より連絡を受け、京都に出張することとなった。京都市中区三条に建設される約百室のホテルの在庫管理プログラム開発であった。開業準備室長の中田秦則氏は東京第一インの社員で京都に派遣されていた。中田氏とは五十四年に
 東京第一ホテルの関連会社第一インに出向されていた当時、ホテル建設事業計画を担当され、その時からの知合であった。東京 第一ホテル関係の機械導入は五十八年三月の第一ホテル筑波へのフロント会計システム納入してから五年ぶりであった。
  東京第一ホテル京都の中田氏とのプログラムの打合わせで年末まで六回出張し、十二月末にキャノンパソコンを京都に発送、ホテルにセットした。翌年の三月にプログラムの開発は終了した。その後、四回出張したので、合計十回の京都出張であった。
  三井物産㈱に勤務していた㈱オフィスコンピユータの代表取締役である佐々木源基氏の紹介で平成元年四月にオープンするロイヤルパークホテルの客室部門のリネン管理プログラムを納入することになった。
   この会社は第一ホテル京都と同じく在庫管理システムであったので、リネン管理プログラムの開発の見本として、第一ホテル京都のシステムを紹介した。
   四月一日よりの消費税の導入は最初に想定していなかったため、納品直前に消費税のプログラムの追加が発生、このためプログラム料は約二百五十万円になった。ホテルには日本IBMの汎用コンピユータで導入され、客室管理部門には佐々木社長が端末機としてIBMパソコン5550機種を納入していた。この機械を利用してのホテル従業員の制服や客室のシーツ類の洗濯代やマッチや灰皿など備品を管理するためのシステムで、在庫管理と経費の管理が主体であった。ソフトを納入して殆ど問題が発生しなかったのは、機械の保守の必要性がなく、ホテルにはシステム管理部があり、色々な問題点はこの管理部で解決されていた。

2008年11月 5日 (水)

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 093 国際ホテル学科非常勤講師

  六十三年四月十三日より国際ホテル学科二学年のコンピユータ実習の非常勤講師を委嘱され、学校とソアレックス㈱との講師派遣契約に基づいて実習を担当することとなった。講師料は九十分授業で一万三千円である。講義は毎週水曜日九十分授業で四クラスを担当、年間二十七週で四単位の教科である。
  パソコンは二十台設置、一クラスは約二十名の編成であり、このなかには韓国、台湾、中共、香港、マカオ、ミクロネシア及びフィジィからの留学生が二十四名含まれており、また男女の比率では三割八分が女子学生であった。
   
フロントシステムを学校に納入、かつ実習を担当するわけであるが、開発したシステムが妥当か否かは、学生が理解できるかどうかである。このため学生の理解を容易にするための教育資料の開発にかなりの時間を投入した。
   
一日に四回にわたり講義をするために同じことを黒板に書くという作業を合理化しておく必要があり、事前に講義内容をワープロで作成、学校の複写機にかけて必要枚数を配布公休その他で欠席した学生にも資料を配布した。学生間でノートを借りる必要性がない授業であった。最初から教科書を作成するのは困難であるため、学生はパソコンのスプロケット付パソコン連続用紙を綴じ込むことができるファイルを教科書替わりに購入し、学校で準備された書庫棚に保管させた。実習でのアウトプットを各学生のファイルに順序よく整理させ、講師がファイルの見本として「目次」を配布した。試験においてはこのファイルを持込資料とし、この中から試験問題を出題することにした。
 
ファイルは書庫棚に格納されクラスごとに整理されており、学生の学習への達成度を外観からも把握できるようにした。コンピユータ実習において暗記するということよりもコンピユータで印刷された資料が何であるか、これを順序よく整理することが実際のフロント会計業務で求められる。学校で使用したコンピユータ用紙での印刷物を卒業まで学生に保持させることが、プログラムの開発内容を立証する資料でもあった。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 092 国際観光専門学校コンピユータ実習教材

  六十三年一月末、国際観光専門学校東京校国際ホテル学科講師志賀景昭氏より、学校に東芝パソコンが二十一台設置されるので、フロントシステムを開発して欲しいとの連絡を受けた。志賀講師は二年前まではEX社の顧問であり、私が開発したシステムの内容は熟知されていた。
   
学校に納入を予定されている東芝のパソコンは観光学科、航空輸送学科および国際ホテル学科が共同で使用し、ソフトウエアは東芝のソフトハウスで開発中であったが、開発中のソフトは観光学科では旅行計画書の作成、航空輸送学科では航空貨物運送状の作成で、実習担当講師がソフトハウスに業務内容の概略を教えて開発させていたが、コンピユータ授業が四月から開始されるため、ホテル学科のプログラムはこれに間に合わないと判断された。学校側が新規にシステムの仕様書を書き業者に開発させる場合は、色々な問題があるため、新規開発よりも実際にホテルに納入し、使用されているシステムのほうがよいという結論になった模様である。
 
 私が開発したホテルフロント会計システムは米国式の会計経理であるため、国際的に汎用性があると判断された。志賀講師より見積書には志賀講師が内容についてすでに点検済であること付記するように助言された。
   
国際観光専門学校には留学生が多く、またホテル業界用語に慣れさせるためにプログラムを日本語と英語との二種類とすることを学校へ提案した。このため見積書は四百二十万円となった。ホテルに納入する場合、パソコン一台を対象にしているが、今回は二十一台を対象とした金額であった。
   
コンピユータ処理の対象となるホテルのモデルは客室規模を二百室とし、レストランおよび宴会施設を七ヶ所とした都市型ホテルとした。また電話料金自動登算の仕組をプログラムの中に折リ込み、使用中の客室から外部へ電話をかけたと同じような現象をコンピユータに乱数を発生させて再現させる計画とした。
  参考資料としてIBM機種で開発したフロント会計システムは日本語と英語の二種類の説明書を添付した。一年前に英文の説明書を作成していたので好都合であった。見積書を学校に提出し、承認を得てから開発に着手するのでは、四月十三日よりの授業に間に合わないため、学校事務局を信用しての見切り発車である。
 
事務局が私を信用されるかどうかにかかつていたが、プログラムを開発する私が國際ホテル学科コンピユータの非常勤講師をも兼ねることを希望された。授業を行う講師がプログラムの内容を把握しておく必要があり、ソフト開発者と講師とが同一人物であることは、学校としては大変魅力的であると言われた。学校よりの見積書の承認は確実であると予想し、二月のはじめよりIBMパソコンでプログラムを開発し、それから東芝のパソコンに移行する計画を立てた。
   
学校事務局へ見積書を提出した後、校長室に挨拶に行った。校長は鷹司信兼氏で元日本航空㈱本社広報室次長であった。授業としては航空輸送概論を担当されていた。校長は私の経歴書を見るや、今年、阪急の混載部門であったJFCより卒業生を採用していただき有難うとお礼を言われた。また日本航空の貨物部長であった網倉氏を知っているかということを質問された。即座にこれに答えた。色々の話で私が知っている約二十名の日航社員の名前を申しあげたところ、校長は全員の名前を知っておられた。私は福岡で旅客業務、東京で貨物業務であったので、日航社員で面識がある人は多かった。最後に私を阪急に紹介したのは田尻重彦氏であると申しあげたところ、彼は校長の羽田時代の部下であったと答えられた。
  私が観光、航空貨物、ホテルを経験していることは、専門学校の全学科を網羅しており航空機乗員養成所で航空機整備まで経験していることを大変評価された。校長との面接で見積書の承認は間違いないと判断し、作業にとりかった。この学校の教務部長、学生部長は元日航社員であり、他に日航の関係者が五、六名、教職員として勤務していた。  学校で使用するプログラムは、成田エアポートレストハウス(客室規模二百十室)で使用されたものをモデルとしており、このホテルは東京航空食品㈱の一部門で日本航空の関係会社であった。
  国際観光専門学校の教育科目で語学はきわめて重要であり、コンピユータのプログラムでは日本語と英語との二ヶ国語を対応させるというアイデアはコンピユータ業者にはない発想である。私が講師を依頼された場合は、二ヶ国語を対応したほうが講義に有効であると思った。専門学校の授業では私は英語の講師ではないが、自己の語学での体験をコンピユータ授業に組み入れることが重要と考えた。
 東芝のパソコンで開発する前に日本IBMのパソコンでプログラムの作成を行ったが、運よくIBM機種で開発したBASICプログラムが東芝機種に移行できた。移行できなければすべて作り直しになるため、納期が大幅に遅れることが予想された。
   パソコンで他機種との互換性はこれから数年後、IBMの主導で研究が行われることとなった。キャノン機種と東芝機種との互換性はなく、キャノン機種と富士通機種も同様であり、IBM機種と富士通機種との互換性がなかった。機種の互換性の情報は当時不明であったので学校が東芝機種を採用したことと、私がキャノン機種からIBM機種のプログラムへ切替え研究していたことはプラスであった。
  
プログラム納品時のデモの立合は鈴木  博氏で、国際ホテル学科講師でまた学校の顧問であった。帝国ホテルから日本航空開発㈱に入社され、専務取締役で定年退職された経歴の持主である。日本航空㈱関連会社IFCは日本航空開発㈱の子会社であり、IFCにコンピユータを納入していたので鈴木氏の名前は知っていた。鈴木氏はプログラムの立合で私がよい技術をもっていることを讃賞された。日本航空関係会社成田エアポート・レストハウスに実際に納入したシステムに専門学校の授業にプラスとなるプログラムを付加したものを提案することにした。学校へ見積書を提出、承認されれば会社のビジネスにもなるため、一般の講師よりは教材の開発は積極的であった。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 091 パソコンと電子交換機との接続

 成田エアポート・レストハウスには、六十一年四月にフロント会計システムを開発、納入していたが、同ホテルより六十二年十一月、使用中の電話交換システムを撤去して新たに電子交換機システムを導入したいとの連絡を受けた。
 
 客室から外部へ電話をかける場合、客室ごとのメータ計に電話の度数が表示され、夜間に客室料金や飲食代金を各部屋に付け込むとき、電話課金を手入力していた。電子交換装置を導入して各部屋の電話料金はプリンターで印刷し、更にフロント会計コンピユータと連動させ、毎日、夜間に自動的に電話料金を各室ごとに付けこみ、チェックアウト時に早朝で使用した電話課金があれば、自動的に会計書に追加記入をさせるシステムがホテル側の希望であった。
   
数社の電子交換機で使用中のキャノン機種と連動する交換機として、富士通の電子交換機FETEX2700をホテルに推薦した。富士通より提供される電子交換機インターフェイスの仕様書が唯一の資料であった。
 
富士通のコンピユータと電子交換機との接続を前提としていたのが富士通側のシステムであるため、キャノンのような他のメーカーの機種との連動の経験が富士通にもないため、接続の研究は大変苦労した。
 
コンピユータと電子交換機とを結ぶインターフェイスRS232Cの接続方法から研究した。電話交換機を取扱っている富士通の千葉特約店は電話機販売業者であり、電子交換機と他社のコンピユータの接続方法はこれが最初であった。また通信手順という用語の解釈も不慣れであったので、打ち合わせにかなりの時間がかかった。
  フロント会計はBASIC言語でプログラムを作っていたが、電子交換機との接続命令に機械語が必要かもしれないと考え、キャノンに問い合わせたが、機械語が不要と判明したのは、二ヶ月後であった。
 富士通より接続の研究のためFETEX2500電子交換装置と数台の電話機が会社事務室に提供され、私は会社でホテルに導入したパソコンと接続して接続の研究を行った。三月十五日にレストハウスは新旧の電話交換機の入替を行いに、これに使用中のキャノンパソコンと接続した。
 
通信機との接続にはホストコンピユータとしてのパソコンよりの電話課金の問い合わせよりの信号に応答しないケースがあり、この際、再度の照会を行うが、解答がなければ打ち切る処置を行わないと業務が進まないケースも発生する。この場合、結果的には電話課金の取漏れとなる。他機種との接続には電話交換機の欠陥、コンピユータの欠陥、接続のケーブルの欠陥、あるいは電圧に問題があるか、それともプログラムに問題があるか、責任を他社に転嫁できないことがある。
  阪急在職中、電算機を導入したのは富士通の機種で、ユーザーの論文集には二回掲載されていた。メーカーよりの支援が必要であるため富士通の通信機との接続を希望した。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 090 最初の注文は沖縄石垣島より

  六十年三月にホテルサン沖縄にフロント会計プログラムを納入、この時、SCAT沖縄の名嘉課長の紹介であったが、六十年秋にはSCATを退社して、㈱国建システム部次長として就職した。㈱国建は倒産したホテルを買収し、改装工事を行うことになり、六十一年夏、ホテル建設事業計画採算業務で沖縄に三泊四日の日程で出張した。このときEX社と共同で開発したホテル建設事業計画プログラムを持参した。㈱国建システム部はキャノン販売㈱の販売店であり、機械を所持していたので国建のホテル開発担当者と買収したホテルの改装工事後、ホテルの運営を行った場合の長期経営計画のシミレーシヨン作業を手伝った。
   
交通費と滞在費とを同社で負担、出張費として十五万円程度が支払われた。新たに改装されたホテルは沖縄県石垣島に設立された八十室の石垣グランド・ホテルでここにホテルシステムを納入して欲しいとの連絡をうけた。
   
六十二年八月よりこのホテルへフロント会計、部門売上、売掛集計および客室事前割当システムを納入するため、キャノン機種により作業を行った。石垣島には八月より十月までの期間において、約五日の滞在で三回出張した。東京から沖縄那覇まで空路約三時間、それから南西航空で石垣島まで約五十分であった。航空券代は約七万円、ホテル宿泊費はホテルの招待であった。ソフト収入は交通費を含めて二百五十万円であった。東京都内には販売対象のホテルが存在しなく、きわめて遠隔地に需要が発生していた。 新会社の最初の仕事が石垣島のホテルであった。ホテル建設事業計画というソフトによって、コンピユータソフト開発を受注した最初のホテルであった。

Qd ホテル・コンピユータ・ソフト開発・販売 089 ソアレックス㈱の設立

 昭和六十二年二月十二日、ソアレックス株式会社、資本金千二百万円、本社所在地、港区赤坂で設立登記を行った。代表取締役に三木正也氏(EX社長)と私が就任した。出資比率は各々五十パーセントとした。会社の事務所はEX社の事務所の一部を借用した。対外的には坂本システム研究所の会社組織ということになり、プログラム開発例と会社概要、私の経歴などを紹介した。EX社はホテル・レストランの内装工事設計会社であるため、ホテル・レストランという同一マーケットを対象にした新会社であった。従業員は従来どうり私のみで経理、ソフト開発および販売を担当した。 
  私の代表取締役の経歴として
二八~四三  阪急電鉄㈱社員  出向先㈱阪急交通社
四二~四三  総務部事務機械課長兼貨物部企画課長
四四~現在  坂本システム研究所代表
四四~四八  フライングタイガー航空会社社員 
四七~四八  ボーイングコンサルタント
四五~五八  ソニー倉庫、ソニーサービス嘱託
     新会社のプログラム開発例として
1    フロント会計 2予約管理 3 会計経理
4    予算管理 5 償却
資産管理 6 在庫管理 

7    給与計算 8 顧客管理 9 売上請求
10    部門別売上売掛集計
    
 プログラム開発実績として
官庁 運輸省(航空機騒音証明)
 
   国家公務員共済組合連合会(医療経理)
運輸 ルフトハンザドイツ航空(コスト計算)
 
   日本航空㈱各門各種プログラム)
    東亜国内航空㈱ 
      日本通運㈱関税部分申告計算)

商社 三井物産㈱、三井リース事業㈱

     とみんリース(リース業経理)
宿泊 成田エアポート・レストハウス

     富山、筑波第一ホテル、ホテルサン沖縄 
飲食 ジローフーズ(経営管理)
     ハピーモア(レストランチエーン経営管理)
建設 エクスブレーン・インダストリー(経理)
 以上の会社案内は六十二年三月六日及び二十日の「ホテル・レストラン」週刊業界誌の中開き四面広告に掲載され、これを新会社のパンフレットに使用した。

  

 

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